海軍技術研究所島田分室 〜島田理化工業の推移

   

  《Z研究》
に関する詳細文献は過去に多くの方が発表されています
(下の映像開きますと文献・関係者などを載せてあります)

 



ここに記載いたしました資料は島田理化工業渇社案内等の抜粋・創業当時から活躍された

従業員だった小長谷久雄【黒字で記載】(昭和55年退社)手記(追憶雑記)の転記及び

島田理化工業鰹]業員だった牧田良秋【青字で記載】(平成16年退社)手記でまとめた
尚日本無線(JRC)の推移が重要ですので昭和20年以前の資料掲載しました



追憶及び雑記による技研〜島田理化

昭和15年から平成時代の現代までのあゆみ


昭和7年1932年




昭和12年1937年



昭和14年1939年





昭和17年1942年














昭和17年1942年







昭和18年1943年


昭和18年1943年



昭和18年1943年








昭和19年1944年


昭和20年1945年











昭和20年1945年











昭和20年1945年











昭和20年1945年











昭和20年1945年











昭和20年1945年



















昭和20年1945年

















昭和20年1945年

















昭和20年1945年



















昭和21年1946年



















昭和21年1946年

















昭和21年1946年

















昭和21年1946年

















昭和21年1946年

















昭和21年1946年

















昭和21年1946年

















昭和21年1946年

















昭和21年1946年

















昭和21年1946年



















昭和21年1946年


















昭和22年1947年



















昭和22年1947年

















昭和23年1948年























昭和23年1948年




















平和利用のマイクロ波機器
の製造販売に取り掛かる



昭和23年1948年























昭和23年1948年























昭和23年1948年

昭和24年1949年

























昭和24年1949年























昭和24年1949年























昭和24年1949年























昭和25年1950年

























昭和25年1950年
















 


この部分の赤字記載は元日本無線専務取締役・工学博士 中島 茂様の 『私の体験した未踏む技術との戦い』より抜粋させていただいています






1932年昭和7年〜昭和12年頃まで
日本無線内で、工学博士 中島茂氏は極超短波すなわちマイクロ波真空管(バルクハウボン。クルツ振
動管とマグネトロンの研究に着手、やがてこの研究に海軍技術研究所が目をつけ共同研究を日本無線
に申し込んできて、契約成立後は研究費は贅沢になり、1937年昭和12年頃にはマイクロ真空管
の研究室だけで300名を越す陣容となった)

1939年昭和14年春
この研究室では大出力のキャビティ。マグネトロンの発明に成功された。⇒軍艦搭載用レーダーに使用された


 
『山本五十六』の一言
昭和17年6月
ミッドウエー開戦直後電深搭載採否を決定しようと言うことで日向艦上にて
出席者
△艦政本部〜第三部長 名和技術少将、主任官 橋本中佐
△艦隊側から第二艦隊通信参謀 桜中佐、日向艦長 松田大佐。同航海長
△海軍技術研究所から工学博士 伊藤庸二造兵中佐、矢浪技術大尉、
海軍技師水間正一郎などの出席で、日向艦上会議がおこなわれた(途中省略)
長時間の論議はあったが結論は電深搭載の採用決定・その後会食となり、
大和から連合艦隊司令長官山本五十六大将や軍指令参謀たちが日向にやってきた
このとき山本五十六大将は伊藤、矢浪、水間など技術の所員に対していった
『よくやってくれた、私は、日頃、この戦さを遂行するには、通常兵器では1年
もたないと主張してきたが、君たちのような若い技術者が何とかして画期的な兵器
を開発してくれ。・・・・・
上記の記事は新名丈夫氏(元毎日新聞記者・海軍担当)の資料より引用しました



ここが【Z研究】の発端と思われる 下記映像[潜水艦用電探(1号機)]は森薫樹氏の雑誌記事からの資料(雑誌名及投稿日時等不明)です

 




1942年昭和17年6月
伊藤庸二造兵中佐は秘密訓令を受けて、東京ミタカの日本無線特殊研究所で、電波探深機と併行して電波兵器の準備を進めた 


1942年昭和17年10月
海軍技術研究所では画期的な新兵器として超大出力のマイクロはの利用を考えていましたその
使用目的として、もっとも真剣に考えたのは敵機を強力マイクロ波電力で撃墜することでした
三鷹の日本無線の隣接地に研究所を設けて着手した。

1943年昭和18年1月
画期的な兵器 の出現を切望した海軍軍司令部は、この超大出力マグネトロンの研究室の大拡張
を、海軍技術研究所へ指令してきました。
この話を聞いた私(工学博士 中島 茂)は早速大倉喜七郎男爵を訪問して相談しましたとこ
ろ、ご自身(大倉喜七郎男爵)静岡県島田町の東海事業(東海紙料)株式会社に案内して下さ
れたのでした、海軍技術研究所はここに約く2万坪の 土地を確保して、大研究所を急遽建設す
ることになりました


その後伊藤庸二造兵中佐はかねてから押し進めいた、電波兵器の本格的開発を進めるため、
東京三鷹の日本無線内に機密で設置してありました、海軍技術研究所が手狭なため、水間に対
し何処か実験場に適する場所を探すよう指示されたとの事、そしてその場所が決定したのが
静岡県島田町の東海紙料に隣接する広大な敷地(大倉財閥のマグネシュウム製造工場予定地)
(2万坪)に決定され、(条件:東京より日帰り範囲、電力が豊富、物静かな田舎)

当時の大井川電力事情参考

 
昭和18年から突貫工事で建屋の建設がおこなわれた。

1943年昭和18年5月
海軍技術研究所電波研究部島田分室設立
(製紙会社の 東海紙料(18年3月まで)⇒東海事業 )の隣接地の2万坪に設置

建設中の島田実験場・下記映像2枚は森薫樹氏の雑誌記事からの資料(雑誌名及投稿日時等不明)です

 



1943年昭和18年5月

海軍技術研究所電波研究部島田分室設立 [(製紙会社(東海紙料)の隣接地に設置]

⇒ 東海紙料(18年3月まで)⇒東海事業 (21年3月まで)

⇒東海パルプ(平成21年まで)⇒東海特殊製紙

 


1944年 

戦況が思わしくないと見た上層部は、実験所の分散を図り、海軍島田実験所と同じ実験など
できる様、設備と研究者の疎開先の検討に入る(正確にいつの時点か誰の指示かは不明です


疎開先【牛尾実験所の設置】島田分室より2Km程の上流付近
牛尾山鼻先地先の山の中とその周辺、住宅借上げ(強制立退き)などして牛尾実験場として
建屋の建設、住宅の改修、備品の整備等開始。(正確にいつの時点か誰の指示かは不明です

 

1945年
疎開先【崎平実験所の設置】島田分室より50Km程の上流付近
榛原郡本川根村、崎平地区の中部電力大井川発電所内及びその周辺(発電所に通ずるトンネル)
実験場備品の搬入、そして一説には発電所の建屋その物を、実験室と考え、使用した様ですが


1945年6月
大上良冶中尉は島田実験所を案内され(半日ぐらい見学)疎開先の崎平に研究者の宿泊先確保
のため民家の借り上げ、下宿先などを調達する責任者として即着任された
 

本格的に設備の移転を開始しようとしたの時点はわかりませんが、大上中尉が指示され赴任され
たのが6月ですので、終戦まで40日〜50日程度の期間ですのでわずかな備品しか移設されなかった模様


北研での研究は進んで、波長20cmで出力100KWのマグネトロンの開発実験を終え、さらに
500KWの研究えと進みつつあり、直径20mのパラボラアンテナも完成しましたが、これらを組
み合わせて実験する前に終戦を迎えた。

この波長20cmで出力100KWのマグネトロンの試作に成功されたのは第一研究所へ日本無線
から出向されていた北研責任者山崎荘三郎氏の研究グループでした。


水間正一郎氏は元、海軍技術廠島田実験所島田分室長で
昭和20年2月組織改革された第二海軍技術廠技術者たちにより翌21年に
東海事業鞄熾泊g織の電気部で創業された

大上良冶氏は島田理化工業所立ち上げ時水間正一郎氏と共に働く、その後工場長として就任した
小長谷久雄氏は(海軍航空技術廠養成所昭和18年⇒三菱航空機製作⇒本廠の飛行機部
配属⇒本廠の飛行機部配属⇒20年3月1日付け第二海軍技術廠実験員 の辞令は受けていたが終戦当時8月15日には着任していなかった  

1945年昭和20年8月15日終戦後


昭和20年海軍技術研究所島田実験所の建物配置図[左側の配置図作成](右側は河村豊教授の論文に掲載
されています資料です、これを引用させていただき、できるだけ忠実に作図して配置図を作成しました

工場敷地(建物)昭和20年から昭和40年変遷 島田市河原町 

 

右上の島田第一中学校(現在は学校ありません)校庭にピンク色のところが第一研のコンクリート跡が校庭の地面つらのあるところで、青いところは水間正一郎 氏のスケッチによる飛行機の位置ですのでスケッチをおもちのは方は照合してみてください、跡地の利用がわかります、薄い黄色が島田理化工業所発足当時、おそらく技研の建物1棟と思います(この確認は当時この学校の生徒で、1研校舎と呼ばれて授業を受けていた、方(吉原三郎氏島田理化社員昭和24年入社)り聞きました.尚この頃はまだ学校が図面のように全部できていたわけではなく無く、周辺に裁判所があったようでした【プール】付近テニスコート、バレーコート付近はさつま芋を作っていたとのことです

上は航空映像(昭和20年頃)と水間氏スケッチと昭和36〜38年ごろの地図と比較して見た



この航空映像は比較の為少し借りています、(昭和20年の何時の日か不明)



  東海事業の木工部(電気部)海軍技術研究所残留者(表現が適切ではないかもしれません)
水間正一郎、他5名
1946年昭和21年6月小長谷久雄入社 して当時7名
昭和21年6月 東海事業(梶y現、東海パルプ(梶zの勤労課長が私の提出した履歴を
一寸見て、君の事は聞いているから木工部の事務所に水間技師がいるから直接面
接に行くようにと言われる
元、海軍技術研究所島田分室長で昭和20年2月より第二海軍技術廠島田実験所副
所長の海軍技師水間正一郎氏(のち島田理化工業(鰍フ実質初代社長であることは
承知していたので少し堅くなったが面接してもらう、
口頭試問で
磁電管(マグネトロン)の原理と応用及び無線通信についての中で主に発振回路の種類
方式などの質問をされた。この質問に冷や汗をかきながらも,一年前に元海軍航
空技術(空技廠)の無線実験室より第二海軍技術廠の通信兵器部の実験室に転属し
攻撃機や爆撃機に搭載する無線機の開発試作時にレーダー関係でマイクロ波ついても
基礎だけでもあるが勉強しただけでも答える事ができそのまま工場配属される。

私を含めて七名との事で仕事はこれから何をやるか考えながらやるとの事である。

まず、君が技術面で何ができるか考えて申告するようにと言われた そこで、
すぐにと言われるならラジオやアンプを作るか、修理ならどうにかできますと話すと
いつからか壊れたアンプを持ってきてくれたので30分ほどで直したら明日でよいから
東海事業鰍フ常務さん宅にラジオを直しに行くようにいわれ、翌日伺い調べたが適当
な部品が無いため部品を組み合わせて、1時間ほどかかったが何とか直し面目を施した
この様な事からラジオやアンプ(電器蓄音機や拡声器など)の修理を言いつけられたが、
終戦後で部品もすぐに間に合わない物が多く代用品を考え乍ら応用し手作りしたりして
修理は繁盛した。

(東海事業の木工部は戦時中,立川飛行機鰍フ協力工場であったので木製機の翼な
どを作っていて木製機部と言っていたとの事でニ技廠にいた軍関係の人で終戦後,
一部この木工部や電気部に入っていた人が現在いるとの話を聞く)

昭和21年6月から8月
こんな関係で東海事業の電気部にはアンプを直す事から始まり常に弱電関係の仕事で
自由に出入りをさせてもらった。
もと、技研(ニ技廠)当時、強力電波の発射基地だった大井川上流の崎平(現、川根本町
)や五和村の牛尾山(現、島田市金谷)に疎開してあった、機械や書類また部品を会社に
持ち帰るよう言われ崎平では大井川に架かっている壊れそうな吊り橋をショイコに荷物を
つけて背負い、恐る恐る渡り、大井川鉄道の崎平駅 (崎平駅ではなく崎平の青部駅の可能性大) まで運ぶ


また牛尾山から大八車で重いプレスなど、ガタガタ道を引きながら島田まで運搬して、
これからの試験工場の作業体制を作る準備をする。(このとき運んだネコプレス等は、
その後20年以上も使用した


当時計測の測定器校正用に使用した
@受信機(昭和40年移転際行方不明廃棄処分された模様)
、唯一海軍技術研究所牛尾実験場から引き上げた遺産と聞きました、


上記の映像はラバウル通信隊設置状況の再現(内右側1台の受信機は現在六合ミニミニ博物館所蔵で展示場大切に展示されています



上記のラジオ以外に牛尾実験所から島田に引き上げたものに、
Aねこプレス(穴あけ/折り曲げプレス)昭和21年から現役使用し移転の際処分

(昭和38年当時ねこプレスの設置場所板金工場の近くで仕事をされていました杉山静夫のスケッチです)




B自動ネジきりマシーン(ドイツ製)昭和21年から現役使用し年昭和40年阿知ケ谷移転後その
後数年使用した(空胴波長計の平歯車を休み無く製作しつずけたマシーンです)


映像の無い為スケッチを掲載いたします、現在記憶のある方にスケッチ図依頼していま
すので今しばらくお待ち願います


C静電型高圧電圧計(平成21年島田製作所解体廃棄処分寸前に確保)

現在ギャラリー六合古典ラヂオミニミニ博物館保管展示/映像の左下のメーターです)旧海軍技
術研究所遺産ただひとつ健全かと思われましたが、製造が戦後の物でした(映像の左下の静電高圧電圧計)
したがってこのメーターは技研からの引継ぎ品ではありません、自社で購入されたものでした




D旋盤、フライス盤、ボール盤など工作室の設備はそのまま利用(昭和21年から昭和40年頃まで)
昭和36年にとなりに自前の建屋を建設された時も、これらの機械類は現役使用された、
昭和41年阿知ケ谷移転時にはすでに最新の物に入れ替わっていました、


島田市海軍技術廠島田実験所跡地及び工作室等工場として利用
1946年昭和21年8月


東光商会として東海事業の電気部から独立


島田理化創立記念日[総員19名]静岡県志太郡島田町河原(電話91番)先ず仕事始めは
旧大型送信機の解体作業を行い,これからこれから使用出来そうな部品の仕分けをし
ながら何に使えるかと,出来上がった物を想像することも楽しみであった,この様な
解体部品が後々に島田理化工業株式会社の成長の糧にもなつた。

昭和21年9月


試験工場が東海事業轄\内より元,ニ技廠の兵舎工作室跡に移転して
東光商会と称して分離独立する。


小長谷久雄は 【東海事業鰍フ荒井社長より直接退職金拾円頂く】 そのまま島田理化工業所の社員

1946年昭和21年12月8日
島田理化工業所創業  



いよいよ本格的な仕事として次のようなものを手掛ける。
◎パン焼き器(木箱を作り鉄屑の中から適当な鉄板を拾い出し電極を2枚作り,これ
にコードを接続し交流100Vを入れる簡単なもの)
◎歯型スイッチ、ダイはベークライトで銅版はやはり屑の中から探して単相、
相用を各く電力相当用として作る。【常時2点は静岡方面に行商的に売り歩く】
◎冷蔵庫の修理(木製で内面の周囲にオガ屑を充填し氷を保冷して冷やす冷蔵庫)
◎その他ラジオ、アンプの修理など行う。
【戦時中に家庭で電気製品が不良になった色々なものを修理依頼され忙しい日々もあったが、気持ちは希望に燃えてきた】

昭和21年12月8日


東光商会が島田理化工業所として創立発足する


島田理化創立記念日[総員19名]
静岡県志太郡島田町河原(電話91番)
先ず仕事始めは旧大型送信機の解体作業を行い,これからこれから使用出来そうな
部品の仕分けをしながら何に使えるかと,出来上がった物を想像することも楽しみ
であった,この様な解体部品が後々に島田理化工業株式会社の成長の糧にもなつた

昭和21年12月8日〜
早速解体部品を使い映写用の水銀整流装置を製作して島田の文化劇場に納入する
(この水銀整流装置は水銀入り整流菅が一抱えもある蛸の形をしていたのでタコバル
プと言い通称タコの整流器と言っていた、整流された直流を映写機のカーボン棒に接続
して、アークを飛ばして光源とする).

昭和22年
名古屋のキャピトル劇場にも水銀整流装置を納入、設置に行く、朝早くでたので朝飯
ぬきで行く途中から大雪のため昼食も取れずコーヒー1杯ですまし、夜遅くまでかかり
完了した、心に残る思い出の一齣である。当時の製作品ではペニシリンの乾燥装置の
実験用試作機作りや、島田駅に拡声器を製作して設置したり、マイクロ波の波長:計を
試作のため管を切り崩し、磨き加工などをする。各地から大型の送信機や電源装
置が運び込まれ、これを解体し部品の仕分けを行う、この部品の中でトランス類は鉄
芯を使い自分達で適当に設計して様々な装置に使用した高周波用の碍子など絶縁
材料は特に利用価値が大きかつた。


昭和22年7月5日


昭和22年7月31日


昭和22年8月5日
  島田理化工業株式会社設立される。
[資本金18万円  社長は山本知太郎ー総員30名]実質的な社長は水間正一郎 氏のようだった


昭和22年
東海事業株式会社において、ラジオノキャビネットを製作する工程に、木材の折
り曲げ加工方法として高周波加熱機が使用され始め、時々不具合の為たのまれて
マッチングを取りに行く

昭和22年12月7日

こんな小さな会社に高松宮殿下が御視察に見えられた。高周波機器を運転して、
ただ硬くなってお迎えした。


右上写真↑昭和22年1947年島田理化工業株式会社が設立され看板が掲示された頃【合わせて大阪市立大学理学部分室、賠償指定機器所在工場と書かれている)



昭和23年(1948年)

本店が東京都中野区本町通り5の8[電話中野(38)ー25553]に移された。 [この頃私の名刺を見ると工場その他の住所は先の通り]
工場静岡県島田市河原町4365[電話島田91番夜間265]
大阪実験所大阪市北区中ノ島大阪大学理学部渡瀬研究室内
大阪連絡所大阪市北区柴田町54八州自動車株式会社[電話福島(45)790番]
(注)[大阪連絡所は水間社長の義兄の不破節郎様が八州自動車の取り締まり役支配
人をしておられたため私は出張時に旅費が無くなりよく借りに行き大変お世話に
なった所であったが不破様の御自宅(豊中市岡町)に伺うと奥様が正一郎(水間社長
)がいつも御世話になりますと言われ心苦しい思いをした事もあった]

昭和23年4月

電波の漏洩電界の問題について、工業所使用する周波数は米国では規定されてい
て、この周波数の漏洩電界強度も発振菅から1kmの距離に於いて短波では2mv/m
超短波では20mv/m以下と規定されているので我が国でも規定してはどうかと、
GHQ案と学振案が提出されているので島田理化に於いて測定した遮蔽効果、電界
強度を比較して見る。

昭和23年7月12日

浜松文化劇場に水銀整流装置を納入し、備え付け作業を行い、実写試験をして検
収して戴く。

昭和23年7月16日〜23日

浦和市の八洲化学株式会社に行きペニシリン(抗生物質)の製品化に、今まで凍
結乾燥で作っていた物を高周波加熱により乾燥して質、量ともに上げようと実験
する

昭和23年8月19日

名古屋の日本碍子株式会社に於いて高圧用(特高)碍子の高周波加熱による乾燥試
験を行う。 1948年昭和23年

本社東京中野区
社長 水間正一郎

9月11日〜17日

角一ゴム,東洋ゴム,中央ゴム,日本曹達,日本タイヤ,大東紡などの各社に,4kw,波長5〜
12mに可変できる高周波発振機を試験,調整して納入する。

9月18日

300Wのマグネトロン発信機を作る(磁電菅はM312)現在マグネトロン(磁電菅)も小型になり電
子レンジ(会社創立当時はレーターレンジとも呼んだ)として各家庭に使用されているが、
この頃は材料を探しながらマグネットやトランス類も手作りで大きさも5倍以上もあった


電子レンジ試作製造実験 マグネトロンM312A、整流管HV972A 出力300W
食べ物の無い時代使い道をさがすに苦労した

中央に完成させたマグネトロン装置とその手前部品を中央に記念写真(このときの図面は写真集の中に配線図があります)



10月3日〜13日

広島県大竹の新光レーヨン(後の三菱レーヨン)に高周波加熱器を納入し、これ
からの新製品としてナイロンで釣り糸を作るために製造工程中の乾燥を高周波を
使い、解けている糸状のものを高速で引っ張りながら乾燥させるために客先の研
究室の人たちと一緒に試験を行う。(現在は釣り糸はほとんどナイロン糸である
が当時は試作段階の為電気的マッチングを取ることや、機械的の問題などで苦戦
したことを時々回想する。
昭和23年10月20日

東海大学の岩下先生(研究部長)+から委託実験で羊羹を高周波加熱して固めながら殺
菌できないかと依頼され加熱実験をして提出する。(当時この様)な菓子は滅多に口
に入らない時期あったが1本戴いたので4〜5人で頂いた)

昭和23年10月22日〜25日
高周波誘導加熱機(城西電気向け)を作る。25日は雨の為リークして不"一まず一
考"、不調を転機に押し付けてと、にっしにかいてある。(半年後に日本タイヤ旭
工場の委託実験で高周波誘導加熱により自転車部品の溶接試験をおこなう。今日
ではこのような加熱機は各種の溶接とか,焼き入れ,焼き嵌め,またヤクルトなどの容器
の蓋のシールとか幅広く使われている)。

昭和23年11月9日〜10日
天竜工芸株式会社(元,浜名郡和田村)に行き椅子の製作に木材を高周波加熱をしなが
ら曲げ加工の試験をする。

昭和23年12月29日
東京工芸大学に5w高周波発振機を納入し達会い試験を受けて無事に本年も終わり来
年の実験課題を依頼される.

昭和23年(1948年)島田理化工業所に日本の物理学者など顧問の訪問、こんな時代もあった

 


1949年昭和24年1月5日〜6日
昨年までレッヘル線で波長を測定して周波数換算いたが本日は周波数計(1MC〜30
MC)を製作すし,手持ちの水晶振動子で作ってあった発振器でオシロスコープと組み合わ
せて校正する。
【この当時の気持ちを表した歌を作詞作曲をした森大氏(元、海軍技術注意)を




思い出しながら記憶のままに、一説を昭和51年12月にSPCの社報に辻のように寄稿した】

     大井の流に 色なすネオン
         意気と力でガッチリ組もう
     やるぞ 作るぞ 世界の果てに
           スワンのしるし みちるまで
     われら われら われらーSPC

(注)ネオンとは、発信機の波長の測定にレッヘル線を張り、この線の上をネオン管で
点灯する距離を測るためのネオンであり、電波漏れを見るためにもネオン管を利用した。

昭和24年1月5日〜6日
またスワンとは白鳥のSWANのことで大上良治氏(海軍技術中尉)図案化の当時のバッチは
SPCの下に戦後の混濁の世に、白鳥の如く白く純潔な気持ちで仕事に打ち込んで
欲しいとの願いを込めてSWANと入れてある。島田のSの字が SWAN と似ていることもある。

S P C
SHIMADA、 PHYSICAL&CHEMICAL、 INDUS丁RIALCО、L丁D、

(この時代は島田理化は何処にあるかと、出張先でよく聞かれたので静岡県の島田と答え
ても通じないため、戦前全国中等学校の野球大会(現、高校野球)でよく甲子園に出
ていた島田商業のある所ですと答えると理解してくれる人が多かった)。

昭和24年1月11日〜2月23日
ゴム布の加流用実験機を作り、色々の方法を模索しながら試験をする、電極をセメント
でローラーの表面近くに相互に埋め込んで作る。この様な試験をもとに大津ゴムなどに、
出力4kW、波長4m〜34mまでの高周波発振機を納入する。

昭和24年3月7日〜8日
日本タイヤ旭工場の委託により自動車部品の溶接並びに、表面焼き入れを高周波誘導加
熱機(2.5KW、周波数IMC)で実験する。[報告書の1部分を後の写真に添付]

昭和24年3月9日
マキノプロダクシヨン向けに、撮影用セットを簡易化するために高周波加熱によりオガ屑を固め
て色々なセットを試作実検をする。(出力4kW、周波数9・5MC)

昭和24年3月17日
高周波ミシン用発振器をバラックセットで作り改良する。(発振菅丁ー311プッシュプル、波長4m)

昭和24年3月18から19日
電気試験所向けの高周波電圧計を作り、試験調整を行う。この高周波誘導を取り除
くための、シールド方法の難しさを2日間みっちり経験し、なんとか物になつた。

昭和24年3月24日〜27日
鎌倉ゴム工業株式会社との共同実験で進駐軍向けのスクーター用タイヤの
RadiohHeatinqg(高周波加熱)による加硫実検を行う。
実検方針は、
1,既加硫タイヤによる温
度上昇試験
2.生タイヤの加硫(比較実検その他)
[4日間に亘る実検結果を考察すると、均等な温度上昇を図る上から早急に改造を行
うと共に、低電圧、大電流方式のmatcningの研究と相まって現生タイヤの配合に関す
る問題も同時に検討して初期の目的に向かって実検を進めたい] [報告書の1部分を
後の写真頁に添付]

昭和24年5月4日〜8日

この実検担当は藤倉ゴム工業2名島田理化工業7名実験が終わったあと藤倉ゴムの青木
さんより新品のゴム底のズック靴を戴く、戦後初めて新品の靴であるため実検よりも、
この方が喜びの記憶として強く残っている。昼休みに早速テニスの時に履く。高周波ミ
シンの開発より約半年、栃木県足利市の興国化学の研究室に高周波ミシン製品1型を納入
試運転の立会いをうける。
日本の試作塩化ビニールでは毎分43cmしか溶着出来ないと言われる、ならば奥の手と隠
し持っていたアメリカのスクラップのビニールを取り出して毎分89cmのスピードで溶着して見せ、
日本のビニールの開発もよろしくと言ってやっと納得され、ほっと一息意気揚々と帰る
[26年頃迄ビニール布製造会社に行くと素材の配合を変えたから比較して見てくれと時
頼まれた、当社もスピードを出すため改良に改良を重ねた]

昭和24年5月30日(7月14日)(8月27日)
国立茶業試験場に於いて、500wの高周波発信器を使用して、茶葉の乾燥実検を試
験場の紅林研究員と共同で行う。(7月及び8月も生葉と荒茶の乾燥試験も行った)

昭和24年6月21日〜23日
日本皮革株式会社に予備実検をしておいた4kw、波長6〜60mの高周波発振機を納入し
て皮革をあまり乾燥しないで大判にするために短時間で接着が出来るように色々な
方法で試験を行う。

昭和24年8月18日
米の無いとき家から米を持ってきてアルファー澱粉取りの実検をやる。(女子大か、どこ
で依頼されたような記憶があるのみ。Ep=3.000v   1p=0.5A   1g=100m
aA生米100g⇒炊き上がり205g⇒高周波乾燥(23分)95g

昭和24年8月20日
超音波発振機を作る(2回目の製作)20cm角くらいの、ニッケル振動子を使いマッチング
が取れた所で水が振動と同時に大きく立ち上がったので大喜びする。
[5年以後には超おんは゜加工機や、超音波洗浄機として製品化された]。

8月23日〜24日(9月2日〜9月10日)
愛知タイヤ((名古屋市)で古タイヤの高周波加熱による加硫わ実施する今迄は島田の山本
ゴムさんや富士宮などで使用してもらっているが近くであるため度々伺っていたが、
今回は遠くてもあり常務さんと工場長さんが試験計画所を出してくれ、これに基ず
き担者を決めると言われて一人で泡わくって2回に分けて計画書を作って据え付けし
ていると、SPCから25日は給料日であるから内金を必ず貰ってくるように電話があっ
たため、25日夜中の2時頃に10万円受け取り一番の汽車に乗りやっと会社に届ける事
が出来た。9月10日曇り一時雨客先の担当者に一日中、試験に使って貰い製品として
一本の失敗無く出来たので本日をもって引渡し、完了とする

昭和24年11月25日
マグネチロン用のマグネットコイルを改良製作、磁束などをして実験する。この頃であったか大
阪大学の渡瀬研究室の依頼で宇宙研究用の依頼で磁力1万ガウスの日本では初めてで世
界でも有数と言われた大型マグネットの製作に市内の外注工場に行き手伝いをする。
大型マグネットコイル【磁力1万ガウス】 大阪大学納入渡瀬譲博士グループ
1949年昭和24年 高周波ミシン(SRA-50A) 誘電出力500W

昭和24年12月15日〜20日
東京の三越百貨店に於いて第一回のプラスチック展が開催され、これに展示する高周波ウ
エルダーと高周波ミシンそのほか厚み測定器など朝届かず、汐留駅で貨車を探して開けて
もらい、やっと三越に搬入でき展示作業を終了する。(15日)翌日より展示場にて
宣伝説明を行う、初めての為かお客の質問ぜめに合い盛況でこれからが楽しみであ
る。[来客が時々展示してあるビニールのサンプルを持って行くので日本大学の早稲田研究
室に行きサンプルを作らせてもらった]

昭和25年1月6日〜27日
高周波ウエルダーにて溶着時に電極菅で放電し、塩化ビニールの生地を傷める事があるため
サイラトロン制御方法によりスパーク防止器を作り、各種の実検をして20日間もかかっが何と
か初期の目的どうり出来た。

昭和25年2月14日
大阪大学の浅田常三郎先生が見えられて原子力爆弾の内部構造や天然ウランの精製につ
いての説明、水素爆弾の構造などと共に太陽熱は如何にして出るとか数式などによ
り話され、これからの時代は、
【石器→銅→鉄→アルミニュウムからチタンの時代であると話を結ばれた】。
【昨年は(24年は)Xーraysgrapnic(写真は写してすぐ現象、焼き付けが出来る
)今のポロライドカメラの原理や構造と電気回路の説明など、いつも私にとっては新しい事
を教えて戴いた】。
昭和25年3月29日〜4月8日
日本タイヤ葛v留米工場(現、ブリジストン)に25KWの高周波過熱機(当時として

SPCの最高出力の発振機)を納入して据付けし進駐軍向けの大型タイヤの加硫
実検を行う。休憩時間には研究室の方が試作中のゴルフボールをもってきて、パンクした
数を教えてと言われ、初めてクラブを持って筑後川の河原で楽しく打った。(当時は
打った時、空中で凧揚げした時の凧糸のように、中身のゴムがどんどん出てきた物も
時々あつた)。

昭和25年4月20日〜5月4日
高周波ミシンの溶着速度を上げるための試作実検に専念する。高周波ミシンが初めて研究
製作されてから約1年、その間数回にわたって改造が行われたが、然し乍ら一方で
は我国に於ける塩化ビニール生産もその間に着々と進行し、漸く商品化され市場に出る
に至り高周波ミシンも注目の的になつて来たので今までの研究的な高周波ミシンから脱却
し工業用高周波ミシンの製作が急務となつて来た。
第一段階として発振器と電極の改良を重点的におき種々試作実検を行った結果、何
とか一応商品化できた。(実験報告書、第二報として報告)【この後2年位あとに
は溶着速度も毎分16mになつた】
昭和25年?月?日
電通研の標準測定器とされている装置が電通研基礎研究部、東大生産技術研究所に
それぞれ1台ずつ納入された。これがマイクロ波測定器メーカー島田理化の第1号の
マイクロは測定装置であった。


昭和25年4月20日〜5月4日
この頃のSPCの旅費規定
/ 日当 宿泊
六大都市 130円     400円
 県外 120円   350円  
 県内 90円    350円  

昭和25年6月社長水間正一郎
昭和25年6月7日
真空管丁Rー594Aにて周波数60MC、出力2.8KWの発振機として種々の負
荷試験をする(当時は周波数が高くできパワーの大きい真空管が無く発振回路を工夫し
ながら作り出来た時の喜びを一人で味わう)

昭和25年10月25日
本年5月に電波法が公布されてから本日社内説明会があつた。主にラジオヒーター関係に
ついて来年(26年)の5月31日迄に(出来れば3月中旬)許可願いを出すこと、
申請にいて具体的説明を受ける。【5月に電波法が公布された時、先ず思い出した
事は昭和20年に横須賀海軍航空隊で無線実検のため爆撃機の「銀河」に無線機を
搭載する補助作業をしている時部長の有坂磐雄海軍大使から「小長谷よ、わしが戦
前に素人無線(アマチュア無線)をやっていた時の様なまた時代も来るだろうから今のうち
に勉強せよ、お前の出身地は島田に近いから考えておくからな。と以前ニ技廠に転
属前(1ヵ月前位)の空技廠の実験室にいた時もにもアメリカの日本向け放送を内緒で傍
受していて、有坂大使に見つかり叱られると思ったら同じ事を言われ、ほっとした
事があった。】
当時静岡県内に私を入れて10名の局ができた。
【この時の検査官が高周波加熱機(誘電、誘導)関係も全般に担当されていたので、
島田理化の製品についても客先の現地据付後の立会い試験にいつも御一緒でき、気
持ちの上でも気軽に色々と技術的の質問や相談もできて助かった】。





昭和26年1951年









昭和26年1951年














昭和26年1951年














昭和26年1951年














昭和26年1951年














昭和26年1951年














昭和27年1952年














昭和27年1952年











昭和28年1953年














昭和28年1953年














昭和28年1953年














昭和28年1953年














昭和29年1954年














昭和29年1954年














昭和29年1954年


昭和30年1955年














昭和30年1955年














昭和31年1956年














昭和31年1956年














昭和31年1956年














昭和31年1956年














昭和31年1956年














昭和32年1957年














昭和32年1957年














昭和32年1957年



















昭和33年1958年

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昭和34年1959年

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昭和35年1960年

(S)















昭和35年1960年













昭和35年1960年













昭和35年1960年






1951年昭和26年
(通信関係)極超短波マイクロ波機器販売開始

昭和26年1月19日〜22日
塩化ビニールがナイロンとかビニヨンとか呼ばれた時代から国内では川口ゴム大和ゴムや私の知
る限りでは三井化学、三菱モンサント横浜ゴムなどが競つて作り始め三井化学では昨年、
可塑剤の配合比率を変えて高周波加熱による溶着状態のテストを名古屋に出張時に依頼
された事もあり各社競って原反を品質向上に向かって作りはじめた。

昭和26年1月19日〜22日
当社としてはビニールの高周波加工した名刺入れや定期券入れを金型を作り加工方法を
教えながら高周波ウエルダーの販売をする。
また高周波ミシン高周波ウエルダーによりレーンコートを5分で一着作るための作業工程とこれに
必要な機器の台数を算出し、これを基本に販売戦力として検討し、レーンコートを自分達
で作れる様に女性から簡単な洋裁を教えて貰う。
【この時教えてもらった洋裁がその後、大阪や京都のデパートで一人で実演PRをす
る時に恥ずかしかつたがPR効果もあり助かった】

昭和26年3月5日8月12日
大阪出張所が不破節郎様(社長の義兄)の御尽力により、やっと開設できた。
不破様が非常勤の所長となられ、私は出張で駐在するように言われたが留守番がい
なくて連絡も困ったが、先に奥の室に入居していた大稲商事と言う会社の人達が電
話番位してやるよ、と言われ当社の受けてメモをしておいてくれた。
【大稲商事の人達は早稲田大学の出身者で以前はそれぞれ別の会社で役員をしてお
られた方々が退職され、この会社を作ったとの事で繊維関係やその他の仲買をして
いる様で平日でも友人の方々が囲碁をうちに来られていた。】
大阪出張所大阪市西区阿波座上通り2丁目7番地電話(新町)53ー1329

昭和26年8月下旬〜9月上旬
島田理化工業竃シ古屋出張所勤務                                                     
名古屋市中区伊勢町2丁目8番地(名城会館)(愛美プラスチック(鞄)
電話(東局)4ー7026、8127    
名古屋出張所はプラスチック鰍フ安部長太郎様が兼務されておられ、各社に安部様
の紹介で同行したりしてPRと当社の製品を納入してある所はサービス点検を行いながらPRをする。
昭和26年9月27日〜10月25日
京都、大阪地区で機器の据付、指導、クレーム処理と集金をする。※クレームの多
いのは電力事情が悪いため工場も家庭も電圧変動が大きいので、この対応方法を説
明する、各電力会社も戦後復興に力を注いでいるとはいえ、わが社としては原価的
にも良い簡単な電圧自動追尾装置を考えて取り付ける必要を痛感する。島田に早く
帰って試作したい気持ちに煽られる。


昭和26年11月13〜11月29日
鐘紡淀川、坂東調帯をはじめ大阪府、京都府、兵庫県内の納入各社に技術指導をし
ながら一台でも受注したくて巡回する。
11月16日〜11月24日
大阪の三越百貨店に於てビニールの展示会(近畿以西の通信局管内)が開催され当社も
高周波ミシンと高周波ウエルダーを展示し大変珍しがり大入りであつたが加工業者ら
しい人は少なかった、これからは加工業者を養
成するためのPRも必要と思った
1951年
昭和26年12月13日〜12月22日
上記の展示会などにより引き合いもあり、兵庫、和歌山、大阪地区の問い合わせを
戴いた会社に、電話、又は出向いて説明する。この中にはご夫婦お二人の家庭で購
入の検討をされていた方もあり、高価でもあり一寸心配であつたので自分の考えて
いる範囲のメリットデメリットを充分説明する。(その後、このお宅で高周波ウエル
ダーと高周波ミシンを購入して戴き、部屋の片隅と廊下に据え付けて取り扱いの説
明をしてから、半年で原価償却をしてしまったよと喜ばれた)。
1952年
昭和27年1月8日〜6月12日
大阪、神戸地区の営業的業務と客先との技術的打ち合わせ等と共にゴム会社に当社
の開発品の厚み測定器の売り込みと、ゴムの高周波による加硫の拡販にまわる。
この間をぬって島田に時々帰り客先の要望事項の高周波ミシンや双頭式高周波ウエ
ルダーの改良製作、試験をやったり、また、東京地区へ行きサービス業務を行う。
4月12日より6日まで大阪大丸百貨店に於て日本ビニー展が開催され高周波ミシンウ
エルダーを展示して動作、説明をする。※当時くしくも三菱電機と"駒”を並べて高
周波ミシン、高周波ウエルダーの実演を行い、その性能を競い合った事が思い出さ
れる。引き続き4月16日より20日まで京都大丸百貨店に於も展示会があり風呂
敷を作る実演をし説明を行う。

昭和27年5月3日〜13日
京都の丸物百貨店にても展示ね実演説明をする。(当時百貨店の階段の下で一人で
PRしていると、何か段々と自分が惨めな気持ちになる)。名古屋の松坂屋に於いてプ
ラスチックフェアーがあり高周波ミシンを展示、実演説明にあたる。(5月21日〜
23日)

昭和27年5月25日
大阪の高島屋に於いても高周波ミシンの展示、説明をする。(5月24日〜25日)
定例技術会議があり高周波ミシン、高周波ウェルダーについて意見交換と討議があ
り、この席で8月より本社工場が(中野区)新設されるに伴いマイクロ波機器の生産
を東京で行うとの話があった。折角実用的に手掛け始めたのにと、少しガッカリし
たが欲張っても仕方がないと思った。

昭和27年7月29日〜12月11日
この間トータル2ヵ月程は大阪、京都名古屋、東京地区の据え付け、指導ね及び営業
的業務に島田より出たり入ったりした、島田では製造から調整、検査までして、ま
た飛び出すのが日課であった。
 

1953年昭和28年

海軍施設の工作室から島田理化自前の新工場へ

設計・実験室・計測・MC仕上(カメラ目線⇒南南東から北北西方向)//事務棟(カメラ目線⇒北東から南西方向)



1953年(通信関係)NTT用マイクロ波分波器本格的製造納入【東京調布本社ショールームに郡分波器の1号機が展示されています】


昭和28年1月15日
定例技術会議

1、ビニールシート

2、25年から27年の販売実績について、合計266台

高周波ミシン 300W,500W型日当 124台
高周波ウエルダー 300W型       59台
高周波ウエルダー 500W型       28台
高周波ウエルダー 1KW型       19台
高周波ウエルダー 2KW型       31台
高周波ウエルダー 5KW型       5台



昭和28年1月29日
社内に於て大阪出張所の営業、技術関係あと、高周波出力3KWの発振機でプレヒー
ターの試験を行う。※目的、フェノール樹脂1kgを90秒高周波加熱して120
土2、5度以内にして、食器類、電話器などをモールド加熱加工する前の予備加熱の
為。

昭和28年2月7日〜4月23日
名古屋方面が芳しく無いのでPRと巡回サービスに廻るように指示されたが、その
うちに大阪地区が、どうもと言われ名古屋、大阪を行ったり来たりする。

昭和28年7月19日
島田の共生病院で火花発振の電気メス(切開ね凝固、熱治療用)の修理依頼があり、
私に指名され自信が無かったが何とか直して、大根や人参を使ってテストして医師
からOKを貰う。

昭和28年12月
待望の島田工場か隣接地の河原町に新築完成し、住み慣れた元、兵舎の工作室あとの
工場より移転する。

1954年
 
昭和29年1月6日〜2月10日
広幅用の高周波ミシン完成(横浜ゴムへ納入品)塩化ビニールが農業用のハウスに実
用化され始めたが面積の大きな、強度的にも強い物を作るために本機を製作する。
54吋幅の原反を2本つなぎ合わせ、両サイドを折り曲げ補強接着をするために発
振機を3台使用する、装置が大型のためロール等の機械加工が社内に大型機械が無
いため、以前パラボラの機械加工を一部して貰った焼津の外注先(法月鉄工所)で加
工してもらい、この場所を借りて組み立て、調整わ行った。【大型の高周波ミシン
として、3台の発振機で3ヵ所の接着部を並列運転するため、高周波の相互誘導に
苦戦したが、何とか立会い検査に合格し納入できた】。

昭和29年6月
超音波加工機の加工速度向上のため、ニッケル磁歪振動子【16Kc(KHz)】とホーン
の改良製作をする。ホーンは軟銅を使用し、音速を概略で5.000mとして自分
で適当に推測計算した為か、ノードまで振れてしまったので少しづつ修正した。
ニッケルの積層とホーンの接着はアラルダイト接着剤を使用した、ツールはピアノ
線の0.5mmを使いカーボランダム240番を水と混ぜてタンガロイに穴あけ加
工するも、深さ0.5耗を加工するのにツールは1耗も消耗してしまった。(実用化
は大変であるが努力目標もできた)チタン酸バリュウムの振動子も検討するように指
示されたが、まだ機械的に弱いとの事である。

昭和29年7月19日
その後ガラスや水晶に文字等の彫刻用にするための、ツールを製作しながら加工試
験する。富士通信機より受注したステアタイトの段違いの穴あけ加工についてもね
ツールと同時に研磨剤についても、シリコンカーバイトやボロンカーバイト、カー
ボランダムと比較しながら試験する。

昭和29年8月3日〜9月11日
携帯用高周波ウエルダーの試作と商品化の作業をする。※周波数、40〜90MC
   出力  50W回路は最終的にコルピッツにして、接着結果は幅2.5耗、長
さ6糎程度なら良好である、補修用などに利用できそうである。

昭和29年9月20日
通信研究所へ納入の200W超音波加工機用の発振器を調整検査を行う。

1954年・昭和29年11月
実  社長が就任される

(朝鮮動乱後、不況になりこれからどうなるであろうか)

昭和30年2月
早速、人員整理
会社員266人中98人整理退職された。去るも涙、残る
も涙であり、お互いにつら
い日々であった。残った以上1年〜2年、かかろうとも1日でも早く退職した人達に戻っ
て来て貰おうと話合う。



昭和30年2月3日
300W超音波加工機、1合機の改良型発振機(型式USEー3024)を試験、調整す
る。後日、東京工場に行き、先に送っておいた加工機本体と組み合わせて総合試験
を行った、これが当社の基本型となった。

昭和30年3月26日
国鉄へ納入の200W超音波加工機(USMー200)本機も本型式の1号機であり慎重に
試験調整をおこなった。周波数は21.75KC〜28.8KCのユニバーサルである

昭和30年9月〜10月
日立茂原工場より受注した送信管増幅試験機の基礎実検から調整、検査まで受け持
つ。送信管5F23、その他の送信管を試験する装置であり、周波数は70MC〜75MC、
110MC〜115MCでパワーも大きいため困った時もあったが、アマチュア無線で送信機
の周波数の可変方法と高くする手段を色々とやっていた事が役にたった装置であった。

昭和30年11月26日
原口電機へ納入の300W超音波洗浄器を製作、試験周波数400kC〜IMC、発
振管UY807、増幅管P220、振動子は440KCのチタン酸バリュウムを使
用する。洗浄液はシンナー、及び灯油にて試験。

昭和30年12月14日〜17日
金沢市の平野化学(梶jに納入済みの高周波プレヒーターが故障のため出張する
電話機の製作工場)大雪のため金沢駅より電車が動かず、膝までもぐってしまった
が徒歩にて50分位かかり工場にたどりついた、修理をして製品作りまで立会い16日
の夕方迄かかり、その後富山の並木ビニールに行き、ウエルダーの点検修理をして
帰島する。
この時の汽車賃
島田〜金沢(米原経由)720円 金沢〜富山 130円  富山〜島田 700円     


1956年昭和31年3月8日〜3月11日

名古屋工業研究所において超音波加工機、及び放電加工機の講演と実演が開催され
超音波加工機については山梨大学の谷口博士が講演された、私はその横で講演に
沿って150Wの 加工機で実演を担当する。また放電加工機については東京大学の
倉藤博士が講演された。
当時の超音波加工機の販売価格
(当社より商社の安宅産業への売価)
50W型  27万7000円、150W型  65万円、300W型  97万円

1956年昭和31年3月15日

当時は晴れ舞台の国際見本市へ出品の為300W超音波加工機の調整を行う、振動子
は21.65KCのニッケル磁歪振動子を組み合わせて調整するも周波数調整用バリコン
の容量が小さくて可変範囲が狭く調整に苦労したが何とか完成する

1956年昭和31年6月29日〜7月2日
超音波半田ごての製作、実験*アルミ、銅、ステンレスの半田付け。自動追尾用の
ピックアップの検討、改造、試験。

1956年昭和31年7月3日
キャノンよりレンズの研磨後の石砥、及びピッチの超音波洗浄【除去】の試験を依
頼され実験する。300W 洗浄機にて、(トリクレン液使用)ピッチは15秒にて
OK,
石くずは20秒にてOK

1956年昭和31年7月9日
超音波加工機用のホーンの設計を支持され、鉄、コバルト合金、及び、も寝るメタ
ル(モリブデンとニッケル合金のホーン設計をする、この後自分の設計品を試験す
るのが楽しみである

1956年昭和31年7月12日〜14日
愛知県東春日井郡の大隈工業にて超音波加工機の据付、試験をおこをする。
目的カービン銃などの小銃弾(6mmФ〜10mmФ)、深さ20mmのプレス型用の焼きいれ
鋼に孔明あけ後に制度を出す為。一部試験後、研磨剤に使用していたボロンカーバ
イトが不足する、輸入に3ヶ月かかるので入手後、再試験を条件として検収してもら
った。

1956年昭和31年8月1日〜3日
超音波半田鏝の鏝先の材質について比較試験(真鍮、鉄、モネルメタル)を行うも
、信服測定がはっきりできないため心腹測定器の増幅器を作りピックアッツプはチタン酸
バリュウムを使用して試験した。
1956年昭和31年8月6日
工業技術院電機試験所に納入する150W超音波振動子(形式、UST-1524N-1A 
No1)
のフリーインピーダンスの測定をする。綺麗なデータ画でき満足される。

1956年昭和31年8月8日〜16日
フェノール樹脂を食器類や電話機などになどの成型するためにプレス前に予備過熱
するのに、高周波出力を安定にする追尾装置がひつようとなり、自動出力制御器を
作り3KWの発
信機に組み込み特性試験をする、結果は何とかうまく(一応良好
にできた)追尾できた。

1956年昭和31年8月20日〜22日
研究製番244の超音波ソルダポットの製作試験をする。
目的:アルミ板、アルミ棒などの表面半田付け。
結果:ニッケる振動子、19.2KC,ホーン鉄、ポットの材質はも寝るメタアルを使
用する半田は錫、亜鉛の比率を種々替えて試験したが、接着時間は10〜20秒で
ほぼ満足する接着状態であったが、温度変化が多きため裕端数追尾をつける必要
がある。

昭和31年9月30日
総合直視装置の開発、試験わ行う。超音波発振子のマッチング状態を直視出来るよ
うに実験し乍ら製作する。

昭和31年10月18日
歯科用超音波治療器(デンタルエンジン)、虫歯などの患部を超音波加工の応用に
より削りとる装置の試作1号機の試験をしながら、2号機の検討わする。
1.治療用振動子部は腕木式支柱で支える事。
2.足踏みスイッチを付ける事。
3.ツール先端に水滴用スポイトを付ける事。
4.振動子は更に小型にする事。
5.発振器の裏面と側面をドアー式にする事。
6.価格は15万円以下でないと一般歯科医では負担が大きい、出来れば10万円を割る
ようにとの営業部門よりの希望がある。

昭和31年11月26日〜12月20日
精密洗浄のために試験用の超音波発器を改良製作、試験わする。
    周波数:300KC〜800KC可変
    出力:600W     
    発振管:UY807    
    増幅管:P220プッシュプル   
入、出力トランスの設計、製作に周波数特性を良くするため時間的に予想外の苦戦
をした。

昭和32年1月29日〜2月4日
3KW高周波プレヒーターの自動追尾装置を改良製作し、負荷はフェノール樹脂で試
する。
追尾回路については何とかクリヤーしたが、サイラトロン(4G63)が日電製と東
芝製で温度特性が違い、この為に追尾が不安定であった一原因であり、比較試験を
行い使用するメーカーを決定した。

昭和32年2月12日〜2月14日
円筒型チタン酸バリュウムを超音波振動子に利用して効率をあげるために、円筒の
内面に円錐状の反射板を作り、角度を変えて実検する。
反射板の材質:鉄、銅の比較、
角度:45度 60度、 90度の比較
周波数:374KC。Ep:1400V、Ip:0.28A
洗浄液:白灯油
精密天秤を利用して液中の盛り上がりにより比較する。(振動子より5cmにΦの
板を天秤と直結して圧力を重量に換算)
※【結果】角度:60度が2.5gで一番良い。
材質:鉄、銅、とも大差なし。

昭和32年6月24〜
下記の2件について原価低減の分析検討。
@自動車用に絶縁被覆電線の先端に圧着端子を付け、この上にビニールチュウブを
電線外皮と溶着するための100W高周波プレス(矢崎電線(梶j鷲津工場向け)。
A2KW自動高周波ウエルダー(東洋定規(褐け)。
@売価  10万円    原価    5万円以下。
A売価  67万円    原価   40万円以下。  



1957年昭和32年7月29日〜8月8日
5KWのプレヒーターの1号機を姫路市の関西合成鰍ノ納入し据付、試験調整する。
用途:大型の食器、お盆などの成型前の予備過熱。
発信機:発振管 7T58R 、周波数13Mc
材料:フェノール樹脂のタブレット
試験結果

重量 加熱時間 最終温度
 2Kg 1分20秒    120℃
 3Kg 1分27秒    95℃  



昭和32年7月29日〜8月8日
上記にて予備加熱のあと成形加工した結果、客先としてはほぼ満足されたが、1号
機のため操作上の問題など客先の意見を聞き、改善する必要があり打ち合わせをす
る。
布施市の長堂化学より高周波自動製袋幾の引き合いがあり打ち合わせをする、塩化
ビニールで硫安の肥料袋を日産1万袋作るための製袋幾であり、これからは肥料袋
もビニール袋の全盛になるだろうと言われ、大きな希望も出てきた。


1958年昭和33年3月21日

島田理化工業株式会社島田工場入社当時工場長大上良治、事務課長  
田中民治仮配属先は製造課課長松野隆一(中野学校出身)計測係・係長大塚昭次様
でした 


昭和33年7月16日
超音波による液体の凝集ね分散、乳化などの今後の新製品対策について打ち合わせ
を行う。

昭和33年10月22日
40MC(40.68мc)帯の高周波発振器のテレビ妨害対策を再検討し、同軸共振器を製
作して39.8MCまで近づけて、テストをした、高調波分は減衰できて良い方向にな
った。

昭和34年2月20日
日興證券向けのタイプライターを丸洗いするための1KW超音波自動洗浄機を試験
調整する、非常に汚れていたが洗浄機がトリクレンのためか思ったよりきれいに洗
浄でき、機械的の試験を重点に行い立会試験を待つ。

昭和34年10月30日
日立栃木工場向けの4KW超音波自動洗浄機の立会い試験をうける、特別厳しい検査
を受けたので客先の検査主任がいまだに忘れられない。
この厳しさのこれ以後日立栃木の冷蔵庫関係の超音波洗浄ラインは島田理化の物を
使用して頂き、毎年夏休みはラインの更新のために大勢で栃木駅前の宿から大平村
へ油だらけの服で電車に乗り外の乗客に迷惑がかからない様に皆で床に座り通勤を
する。

昭和34年12月10日〜11日
三菱電機より受注したスピーカーのフレームとマグネットの接着用に2KW自動高周
波誘導加熱機の立会い試験を受ける、本機では15秒に1個であるが7〜8秒にならない
かとの意見があった。


1959年昭和34年
担当計測係りでは本社からの製作依頼品マイクロ波定在波測定器、電力計などの組
み立て
島田工場独自製品は電子管製造会社(記憶ではNEC多摩川と日立茂原等据付工事に出
向いた)に静特性試験機とかマイクロ波クライストロン電源など組み立て調整が主
体でした 



昭和35年
この間各種の打ち合わせや会議の資料が多く技術関係のノートが不明のため記載を
保留する。業務的には検査主任として種々検査基準などの作成にも専念したが、労
働組合の関係でも役員として次第に委員長に推されて社内の役員と外部団体の役員
も兼務する結果になり、仕事との板挟みの時もあった。
超音波メッキ装置を三菱電機北伊丹製作所に納入して据え付けや、10KW高周波誘
導加熱機の違いにより筺体まで加熱されて、この対策にも苦労した年であった。


1960年昭和35年

タカンシュミレーターの真空管式大変大型で重い物でした、
(高さ1.2m、巾60cm奥行き60cm位の大きさ)⇒防衛庁納入開始

昭和35年1960年、
島田工場の当時3棟ありそのうちの北側に位置する事務所、設計、計測部門の工場
空き地昼休みのひと時


工場長もオートバイ(HONDAベンリー125cc)の時代自動車の所有者松野課長は
運転免許無く同僚(ハッピーセブン(手作りの100cc位のオートバイ)持ち主
)が運転して昼休みにドライブしたものでした

 



昭和36年おのぼりさん鈍行でイザ東京へ【電気機関車の引率で真っ黒な客車10両】


昭和36年1961年

(S)





















昭和37年1962年

(T)












































昭和38年1963年

(T)






















昭和39年1964年

(T)
















昭和40年1965年

(T)


























昭和41年1966年

(S)

































昭和42年1967年

(S)











昭和43年1968年

(S)











昭和44年1969年

(S)











昭和45年1970年

(S)



1961年10Mcまでの周波数カウンターの修理(出荷10台ほどと聞いていましたが、
返品され修理に明け暮れしていました、まだ半導体ではなく一桁真空管4本使用して
のFF回路の組み合わせで16周分して帰還を掛け10進に変換しニキシー管で表示する
、こんなカウンターでした(理論は手動の機械式計算機をぐるぐる回してその瞬間
を見るようなものです)


カメラ目線⇒10Mcまでの周波数カウンター/本社 開発2課職場メンバーGHzスペアナを前にして



昭和37年1月9日〜10日
三菱電機より超音波探傷機(FDー5C)を100台受注する。伊丹製作所の無線
機に参上して小山工作課長殿より、先ず最初に出た言葉が島田理化ではいつも重役
も営業も来ないではないかと言われる。私も実社長より電機会社には、お前が代表
で行けと言われた事があり、今回は考えも無く失敗した、改めて参上しますと謝り
帰社し、本日の打ち合わせとなる。
三菱側、馬場次長殿ほか各部の課長、係長 12名
島田理化側                      8名
昨日に続き本日は放電加工機(DIAX、SWー1E型)を受注するにあたり打ち合わ
せしていたたく、VA的な申し入れをして、作り安い様にその場で検討してもらった

【このお蔭で、のちに鎌倉製作所に移られた小山部長には時々の打ち合わせ会議の
時などでは、大変お世話になり面倒を見て戴き有難く何時も感謝の気持が沸いた】。
昭和37年
島田理化【社報】第1号が創刊される。

昭和37年2月
以後は社報⇒SPCニュースに色々と記載されているので省略しスポット的に書き
留めます。

昭和37年 5月
5月1日付けで管理職としての辞令をもらう。これからは指示する立場になり自分
の好きな電気を直接にあまり扱えないと思うと複雑な気持であるが゙心幾一転゙頑張
ろうと心に決める。

昭和37年 7月      
マイクロ波関係の導波管やその他のメッキ関係が錆びるので、隣接会社の煙突より
のガスではないかと、この調査のため4Km位の周囲にメッキしたサンプルを吊るし
て調査の態勢をとった。
 



1963年昭和38年
※大阪出張所゛大阪営業所と改称された。
三菱電機より受注したロジックトレイナー(今のようなICはなくトランジスターだ
らけのユニットを組み合わせたロジックのトレイニング用)の量産品の製作、検査を島田工場にて担当する。
※敵味方識別用試験器(防衛庁よりの受注品)の組配を島田工場にて担当する。


1963年昭和39年  
東京オリンピックを来年に控え首都高速道路、東名高速道路、新幹線と急ピッチで
すすめられており、そんな中当社では高速時代に合わせ、スピード違反者取締り検
挙用にレーダースピードメーターの開発が急ピッチで進んでおりました、いざ実働
試験と言って首都高速道路で実用試験が行われました、将来はこのような装置で検
挙されるんだなと言いながらテストに携わったものでした、
(小生は実験用バッテリィの運搬を行う程度で技術者の傍ら眺めている程度でした
装置は10000McのCWを発信させ自動車にあたり跳ね返るドップラー効果の低周波を検
波しメーターで指示させるものでした、たとえば100KCを感知すれば100Km/時速と
メーター指示、10Kcですと10Km/時速具合に連続感知が可能であった。
翌年には実用化され皆さん検挙されたのではないでしょうか(小生の記憶ですと当
時SPCは20台ぐらい製作し、ユーザーに10台ぐらい納入し、残りはOEM提携会社に引
き渡されたのではないかと思います、そちらで実用装置が製作され本格的に運輸省
?ないし警察などに納入されたのではないかと思います 


1964年昭和39年
 東京オリンピックで本社東京調布工場の甲州街道がマラソンコースの為選手が通
過する午後は全社員就業中止し甲州街道に出ろ、と当時の井上総務部長が号令を出
しました、裸足での走行で有名なアベベ選手を目の当たりで見。歓声をあげました
(東京では裸足(素足)ではありませんでした 


※電圧器や電動機のサージ電圧などの測定器として、サージテスターを製作、試験
調整まで島田工場が担当する。
※島田市阿知ヵ谷に待望の島田工場の建設が始まる、レーアウトや電気関係につい
て打ち合わせのため残業の日々が続いた。
※年末賞与が3.3ヵ月で正社員79,398円で妥協、これは重電3社(日立、
東芝、三菱)を含めて最高との事である。


1964年
三菱電機鎌倉工場にCPUの周辺機器、リレー式AD変換機の納入
リレー式AD変換機といわれていたものは今思えば、単なるデジタル電圧計でしたが
当時は最先端技術でコンピューターの片棒をになっつ得意げな存在だったような気が
します(今考えると思いも付かないようなAD変換機ですよ、差動アンプ周りが真空管
で、10進分周を全てリレの組み合わせて4桁表示をさせる装置だったと記憶しています


1964年昭和39年
情報機器の生産開始
マークテーパーに始まり
日本電気 (NEC)に自動エッチング装置納入
この装置はダイオードの製造用装置で、金属に液体を流し、その金属が規定値(設定
した抵抗値)なった時点で液体の流れを止めて完了、これを繰り返す連続運転用装置

四日市樹脂プラント工場に樹脂ペレット異物検査用金属探知機納入(感知機故障の
ため、樹脂ホッパーの部品紛失(ネジ類が数本外れていた)感知器が誤動作(未感
知)でペレットが袋ずめされてしまったことが24時間後ぐらいに判明し、その間
に製造され袋詰め何万袋か開封し再検査する事になり、担当課全員で四日市の旅館
で装置の修理を3日三晩徹夜で修理し、現場に取り付けたという大事件がありま
した、一説には数億円の損害だったらしいです、担当者は黙々と修復修理しました

1965年昭和40年
 東京オリンピック、東名高速道路、新幹線と1964年は一挙に様変わりしました、
このような中新幹線は車両定期点検にコンピューターにて静岡県内いの浜松車両整
備工場で行われていました、ところがコンピュターの故障が多く当時本体は三菱電機
周辺一部島田理化が納入していましたが、基本となるAD変換機が使用されていました
がこれが故障が多く、島田理化は数ケ月かけ保守の為出張しました(AD変換機⇒
電圧を計測しニキシー管で数字表示させるだけのものですがこれがなんと、トランジスター
でもLSIでも無く、リレーで動作させるものでした) 


業務用5KW電子レンジ マグネトロン2M60×1本 出力5KW

昭和40年1月新工場落成式


※新工場の建設が出来て新年早々に移転を完了したが、新工場が出来ると何時も大
変な年であったので心配であるが、頑張らなければと思う、主力製品は変わらない
が1E、VAに明け暮れた年であった。

1966年昭和41年
※水中音波器には超音波パルスを出して、その反射を受けて反射迄の距離、方向、
大きさ等を測定する魚群探知機や、また水中ソナーなどに互して島田理化も超音波
水中無線電話の開発、発売にこぎつける、開発時は気泡による音声のくずれや水圧
による水の浸透などで問題もあったが、三保の松原の近くの海で直接担当者と一緒
に潜り実検をして通話ができた時の喜びは、今だに脳裏からさめない。
※会社も河原町から阿知ヶ谷に昨年移転して私も通勤にはバス、電車、バスと不便
であったので自家用車通勤とした、乗用車通勤は3人だけで会社の車庫に充分同居で
きた、この当時は殆どの人は自転車かバイクで通勤した。


1966年
三菱京都長期出張でしたが、大変楽しい経済的な出張でした、三菱電機の社員保養
所に特別宿泊を許可され、1日100円(当時出張手当て1000円ぐらいかと思
いましたが)で3ヶ月程の長期出張、材料被破壊試験装置の実験
1966年昭和41年社章の変更かねてからSONYよりSWAN(白鳥)の上SPCデザインは商標登
録されているので、金銭の請求はしないが、早い時期に取り外すよう要求されてい
たようです、島田工場も河原町から阿知ケ谷と移転区切りもあった用で切り替えたよ
うです、このようなことは本社サイドで行われますので真相は中々つかめないのが
実状です 



1966年昭和41年
※水中音波器には超音波パレスを出して、その反射を受けて反射対の距離、方向、
大きさ等を測定する魚群探知機や、また水中ソナーなどに互して島田理化も超音波
水中無線電話の開発、発売にこぎつける、開発時は気泡による音声のくずれや水圧
による水の浸透などで問題もあったが、三保の松原の近くの海で直接担当者と一緒
に潜り実検をして通話ができた時の喜びは、今だに脳裏からさめない。

1967年昭和42年
※高周波シーラーとして、東洋製缶に缶の自動接着用の高周波誘導加熱機と特殊コイルを納入し、営業の努力で次々と受注ができた。
※またT5KWのコンベア式の電子レンジも完成し、後々インスタントラーメン
の具を乾燥すること等に利用されて、いよいよ大型の電子レンジの時代となる。

1968年昭和43年 
※フレオン(フロン)を使用した精密超音波洗浄機が開発され、これからの主力製
品として力を入れる。液の沸点が低いため自然蒸発による消耗などの対策に苦慮し た。
※超音波ウエルダーもプラスチック玩具などに接着剤なしで溶着できるので、利用
され始め全盛時代に弾みをつける。
※島工製作担当のマークテーパーも商品化され情報機器にも明るい兆しが出て来た。

【下期より特注部門の設計、製造の担当となる】

1969年昭和44年
※自動車のバックミラー洗浄に超音波自動洗浄機も実用化され、これからガラスの
洗浄が本格化された。
※一方各種のでんぱ発生源が増えてきて高周波利用設備から発射される電波の電界
強度を厳しくするように、無線設備規則の一部が3月28日で改正された。
1.医療用設備30mの距離おいて100μV/m以下。
           (従来は300mで25μ/m以下。)
2.工業用加熱設備100mの距離において100μV/m以下。
           (従来は1.600mで100μV/m以下)
3.各種設備  500W以上は上記1. の値に500分のPを
≪Pは高周波出力、W≫乗じた値以下。
【超音波設備は、これに該当する】
施工は明年4月1日、高周波誘導加熱機はさらに1年延期されるとの事であるが、
これからも対策に頭の痛い事が増えるであろう。

1969年昭和44年
 ファスナの世界に画期的革命(金属ファスナーに変わり樹脂性となる)が起こり島田理
化の超音波溶着機の出番がありました、なんと真空管6GB810本×2の28KHzの
500W発信機です。数ヶ月にわたり500台ぐらい納入、(ファスナー製造ラインに1台使
用)いざライン運転してみると、追尾装置が利かなく不良続出で改造することにな
りあまりにも大量の為現地富山県に作業者2週間交代でほぼ1ヶ月現地にて、改造修
理しました、、 

高周波シーラーの四国加工機納入後全国各所のヤクルト飲料メーカー向上に納入
容器自動シール装置5KW真空管使用のアルミ箔面ののりを溶かして合成樹脂陽気に
貼り付ける、これが完成することに寄り飲料メーカー様変わりしました、据付工事
はもっぱら現場の者が出かけ設置ライン動作完了まで付き合う、帰りにはおみあげ
で飲料の原液一升ビンで持ち帰ったこともありました。


1970年昭和45年


※島田工場では第二工場が完成して電気関係の部署は、この1,2階に主体を移動する
※真空管式の高周波発振幾で我国で最大と言われた800KWの発信機が完成、試
験時に高圧の恐ろしさを又あじあう。
※超音波車両感知器が開発され、機器の信頼性が特に重要であり立会い検査も厳し
く行われた。

1970年 冷凍すり身用高周波解凍装置 誘電加熱 真空管





昭和46年1971年

(S)








昭和47年1972年

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昭和48年1973年

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昭和49年1974年

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昭和49年1974年






















昭和50年1975年

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昭和51年1976年

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昭和52年1977年

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昭和53年1978年

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昭和54年1979年

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昭和54年1979年
















昭和55年1980年

(S)
















昭和55年1980年














昭和55年1980年








 

1971年昭和46年
※蒲鉾などの材料である冷凍してある魚のスリ身を、蒲鉾の製造直前に解凍する必
要があり、高周波解凍装置を製作実検をする。
※超音波機器では岩石切削装置として大型機を製作する。
【下期より規格部門の設計、製造を担当する】。
※超音波ウエルダーのホーンを各種(エクスポネシャル型、コニカル型、段つき型
など)作りシーム溶接、インサートかしめ、など核用途別に溶接、溶着の比較試験
をして今後の量産品に対応できるように目安をつける。


1972年昭和47年
昭和47年プラスチックウエルダー開発、100円ライターのきっかけから急速に開発
すすめる


※プラスチックのガスライターなどの溶着用に超音波ウエルダーも量産態勢をとる
振動子もニッケルからフェライトつづいてボルト締めの振動子に移行しはじめ、
日本特殊陶業の研究室に行き種々のランジュパン型振動子の製作工程や、技術的の
問題など打ち合わせをする。
【下期より工務部門に移動し生産管理、資材購買、外注を担当】

昭和47年11月
※社長 前田 春夫、就任される。  実社長は相談役になられる。
【約10年前、私が管理職に任命された直後、実社長が『わいもなー、昔組合の
役をやった事もあり、管理職になった時の気持ちは複雑だが割り切らんと、あかん
でー、』三菱の電機会社には、あっちこっちに製作所があるが、今所長をやってい
る人達は入社した時にわいが教育主任で教えた人が多いでー教えるためには立場を
考えてやったもんだ、うまくね、やんなはれと言われた事を思い出す】。
1973年昭和48年


※超音波パイプ引き抜き装置を新日鉄に納入する。
※マイクロ波関係の郡分波器の総合本体も昨年に続き東工との協力体制をとる。
※工場全体の生産管理、特に減価低減に追われる。


1974年昭和49年

※社章(SPCマーク)が改訂された。

 

※無公害の超音波自動洗浄装置としてね有機溶剤の消費量をT/5以下の目標で政策
し自動車部品の洗浄用に納入する。                
※前田社長よりピンチはチャンスの合言葉でね進むように原価低減の指示が出され
た。
※超音波車両感知器を量産品として京三、日本信号の2社より受注して製作、立会い
試験を受け警視庁や各県警に納入が始まった。

※サイリスタ式の高周波誘導加熱機も大型機が実用化される。

※大型の80KWマイクロ波加熱装置が完成した。潟jッタンフーズに納入する。

昭和50年エス・ピー・シーサービス叶ン立⇒潟Gス・ピー・シー販売

(情報関連機器のメンテナス部門とマークテーパーの定期保守契約に元
ずく運用管理会社として発足)後にSPC販売と改名


島田製作所第3工場(情報機器棟全フロワー使用大盛況のとき)

1974年昭和49年
マイクロ波加熱装置(工業用電子レンジ)2M60×10本 出力50KW

 


1975年昭和50年

タカンシュミレーターの半導体化、CO2レーザー電源開発、レザー加工機として販売する
マイクロ波加熱装置(即席食品大量乾燥)2M60×10本 出力50KW
※プラズマ乾燥装置付きの超音波自動洗浄装置を受注生産する。最終工程に洗浄物を
ベルジャーの中に自動移送して内部でプラズマ放電させる事により洗浄物を乾燥させる。
※新型ハンダ炉の製造に熱をいれる、フイッシュコレクターの改造型の製造では何
時もながら水中スピーカーの振動による水漏れ対策に苦労する、また計測部門では
マークカセットやマークフロッピーなどの製造をする。

1976年 昭和51年
高周波解凍を誘電加熱で大型送信真空管で装置を製作販売


※超音波レベル計も種々開発、製作された。
※トランジスターインバーター開発、製作。

日本原子力研究所向けのJFT-2核融合研究用高周波加熱装置を東芝より受注し、
島田工場にて製作、据付を担当する、電子回路及び総合のまとめは東京工場が担当
した 

高周波出力   200KW

周波数     650MHz、750MHz

パルス巾    1〜100sec

【プラズマ温度は2〜3万度が理論上の限界とのことであるが、臨海温度を1〜2
億度にたかめるのには、二次加熱のひとつの方法としてその波のエネルギーを吸収
ることによりプラズマ加熱されるとのことである】
高周波発信機のクライストロンが輸入品の為梱包から取り出して発信機に取り付け
るのの皆心配で手をつけないので、最初に手を出して(小長谷久雄)恐る恐るセッ
トしたことが装置が完成した喜びより強く印象に残っている



1977年昭和52年

九州出張所を福岡市に東北出張所を福島県郡山市に開設
東北出張所初代所長桜井実氏(昭和20年当時技研島田分室に勤務されていた)

産業機器、本社第三営業部サービス課、にて主に超音波溶着器(ウエルダーのサービス
を行う、大口得意先である東海精器(100円ライターの発祥地)が相模原ー横浜に4
工場有りそれぞれに初期は1工場50台ぐらが配置されていましたのでその、点検
に追われました、東北地方の福島県双葉町などはガスメータの部品溶着、仙台では
音楽テープのカセット、などが販売されていまして、その修理、点検などなど行いました
苦労したことは、客先までたどり着くのに大変、調布より、見たことも無い群馬・
埼玉・福島・仙台と、車で走らなければならないため、大変でした、


1978年昭和53年

※自動車電話用800MHz帯のアンテナ共用装置を島工でも応援組み立て作業を行う
これからは自動車電話の時代になり共用装置も全国に設備されるであろう。
※工業用C02(炭酸)ガスレーザーも長期間の開発実検の末、生産ライン向けが完成した
島田工場が島田製作所と改称された。

昭和53-7-11〜昭和53-7-25(台湾出張)
超音波振動子が爆弾と見られ、別部屋につれてゆかれ大変な思いをした、カタログなど
見せて納得していただきその挙句、100$ほど持ち込み税を支払い無事税関通過した

1979年昭和54年

※年頭ね社長方針によりT0T作戦が指示されねひたすら東証2部をめざして、年頭
100億以上の達成計画を指示される。

※従来の超音波流量計では計測が困難であった小口径のパイプの流量を計測できる
改良型の50〜200φ用が開発された。

【製造部門を担当する】
(職掌範囲=生産管理。工程。生産技術。機械。板金。鍍金。塗装。高周波、超音波
情報機器の組み立て。検査。プロジェクトグループ。)

昭和54-1-21〜昭和54-1-31(台湾・シンガポールマレーシア・他海外出張) 
超音波ウエルダーの据付と修理で海外出張をしました、台湾はエアーレギユレターが不良の
為、手持ちの部品には無く、台湾(台中)で秋葉原のようなところに現地の人と出
かけ探し求めてきて何とか修復、
翌日は台湾から西に5時間ぐらいの小さな国での据付試運転なんと守衛さんのとこ
ろにカービン銃を持った人3人、ふたりは拳銃を腰にさしていて物々しい警備でした、
守衛の窓口にパスポート渡すと取り上げられ、担当のものが来るまでここで待ちな
さいと言われびくびくしながら、待つ、(この時までは何の工場で当社のウエルダー何
に使用されているかは聞かされていませんでした)

担当者が来て設置場所まで案内されて小さな丘や山を進み途中でロケット砲が並べ
てある所で検査らしきことを見かけ、次の小屋では何か丸い円盤の様なものならべ
れいて、やっと付いたところがなんと地雷の製造現場でした、地雷の蓋を超音波ウ
エルダーで溶着する仕事場でした、ドッキリ、びっくり、見たことも無いものが目
の前にごそっとあるではありませんか、・・・・・・結論は溶着すると安全装置の
ピンが飛んでしまうのでウエルダーでの溶着はやめ、接着剤で固めるということに
なりました


この工場は帰りに聞いたのですが国営の、国営造幣局と兵器工場でした、守衛が物
々しいはずでした、逃げるようにその場を立ち去りましたこと鮮明におぼえていま
す。

仕事が終わり、東芝機械さんの現地のかたがたと夕食を共にし次の日マレーシアの
観光をして、帰路はタイ。バンコク経由香港へと移動。


当時ベトナム戦争していましたが、飛行機はメコン川の上空をまたぎ香港に入りま
した、このときメコン川上空より眺めることができました、少しドッキリしました
が、楽しい1週間だった


1980年昭和55年7月
に三菱電機から中村悟氏が島製の所長として着任された。 
以前、三菱電機より青函連絡船の新造船に据え付けるデータ.ロガの製作を島田で
受注した時に、当時三菱電機の電波係長であった中村さんが立会い検査に見えられ
私も当時担当課長の頃であり、懐かしくお目にかかる。5月頃より、退職の気持が
自分では固まっていたので、赴任したばかりの方に退職願いを出すのはどうかと思
ったが、自分の意思であるから提出する、これをどうすれば良いのかと言われたの
で総務部長経由社長にお願いしますと話す。

その後8月15日に社長が都合が良いからと言われたから本社に行って来て下さいと
の連絡を受ける。
1980年昭和55年8月15日
総務部長とお互いに昔からのしてから本題に入った直後、黒川専務が出てこられ挨
拶どころではなく退職の理由が不明確だ、これからどうするつもりだ、勝手事をす
るな、これが鳥の勝手と言うことだ、三菱電機にも部長職の席の一つや二つぐらい
はあると、強い語気でお叱りを受ける。
中座をして前田社長の所に挨拶に行くと、すぐ君の気持はわかるから専務に後で後
で話しておく、これから何処へ行っても今まで同様にしっかりやりなさいと言われ
挨拶を終わる。再度黒川専務の所に行き自分の勝手ではあるが退職の意思は固いこ
とを話しているうちに次の勤め先は健康保険など、しっかりしている所かと気をつ
かって戴き、そのまま手をさしのべられ握手をして別れる。


《私も次の仕事は2ヵ所から話を戴いてあったが、円満退職の上、決断しないと再就
職先に迷惑がかかってはいけないと思い、はっきりと話さなかった、この日、私の
ために専務よりお叱りを受けた上司と数人の同僚の方には大変ご迷惑をお掛けして
申し訳なく、又私の気持側面からかばっていただき感謝しております》。
昭和55年8月15日

島田理化工業株式会社に足掛け34年の勤務中、心に残る思い出と色々のものを作る>
開発意欲が、できもしないのにいまだに沸くことは、SPC創立当時のどんなものでも
最初に作りたいと言う癖が残っているためだろうか。マイクロ波機器も昭和22〜
23年に手伝いをした頃よりのことを考えると通信用なども周波数はどんどん高くな
り20GHz帯の準ミリ波機器などSPCの分波装置や立体回路は各国に進出して行き、
また水中機器では有人潜水調査線『しんかい 2000】に搭載した超音波水中無線
電話の音声修正装置のように、深海から宇宙まで、低周波から高周波、光領域まで
の製品で、いよいよのびるであろう、この時期に、こうして育てていただいた上司
をはじめ先輩、同僚の皆様に感謝しながら、昔からちょっとしたメモとして書いて
あったことを、ただ記載しただけの本、追憶雑記でありますがまずは完とします

平成7年8月15日から8月20日

小長谷久雄 


次頁より30ページにわたり手がけた製品の映像、思い出の映像など掲載されて本は 完成しています
ここではそれらの映像(表紙、まえがき、写真)はまとめて巻末に掲載しています





昭和56年1981年

(S)

昭和57年1982年

(S)


昭和58年1983年

(H-東北)





昭和59年1984年

(東北)





昭和60年1985年

(東北)






昭和61年1986年

(東北)





昭和62年1987年

(東北)





昭和63年1988年

(H)







昭和64年1989年

平成元年1989年

(H)






平成2年1990年

(H)



1980年昭和55年10月
静岡出張所を設置⇒静岡営業所

1981年昭和56年

1982年昭和57年
本社ビル新築(旧本社ビルの西側に展示ルーム、1F総務、経理、
2F,電子事業部、産業機器事業部、及び営業部、
3F会議室、役員室等
昭和56年6月社長 黒川義雄就任される  

1983年昭和58年
エス・ピー・シーフィールドエンジリアリング梶iSPC-FE)設立⇒島田理化テクノサービス
産業機器の保守会社据付、修理、改造
後に島田理化テクノサービスと改名された



東北出張所に転勤(2代目井上所長が病気で倒れたため急遽、牧田郡山の東北出張所
に行ってくれと言われ1週間以内に赴任それから5年程東北6県走り回る、営業経験
なく突然のことで少し戸惑いましたが所員がフォローしてくれて何とか続きました) 

1984年昭和59年エス・ピー・シーユニオン叶ン立⇒滑阜島田理化
(アメリカ向け衛星放送受信用コンバーター(LNB)製造拠点)   

1985年昭和60年
米国駐在員事務所を開設


本格的液晶時代に突入し、液晶用ガラス基板の自動洗浄装置が製造納入され、大変
な忙しさと記憶しています

1985年 昭和60年
マグロ専用高周波解凍装置 誘電加熱 真空管 出力10KW


1986年 

1987年昭和62年6月 社長 潮 拓郎就任される  

1988年昭和63年
エス・ピー・シー・エレクトロニクス・アメリカ・インクを設立


超音波水中無線電話(アクアボ-イ)の販売開始(特殊な水中電話は数年前から防衛庁に
入。超小型衛生通信地球局送受信機器(VSAT)本格輸出
前日黒川社長が東北訪問され会津地方の会社訪問され調布本社に戻られる前に後数
年東北で頑張ってくれと言い残して立ちましたが翌日専務から4月から千葉所長と
交代ので、本社業務部に戻れとのことが告げられました。


島田理化もいよいよ東証に上場するのでその準備作業プロジェクトを発足させる、
その為、現在の電子事業部、産業機器事業部の業務関係者、経理、経営企画室
などから人材集めPJ発足させた、従って小生は業務課長欠員になるための補充で
産業機器事業部業務課に赴任した


景気絶好調ー本社営業、業務部有志 伊豆富士見ランドに旅行したひと時(べらぼ
うに忙しかった時代ですがこのような余裕もあった)

 
上場審査で証券取引所に呼び出され説明、前1週間は指示事項の資料作成で連日徹夜
に近いほど頑張ったものでした、産業事業部の業務部に在籍の為話し合いが多かっ
たです=貴重な経験をいたしました。

1989年平成元年
東京証券取引所2部上場


1990年平成2年4月 
エス・ピー・シー・ハイフレックス梶ヒ八王子島田理化
 





平成 3年1991年

(H)














平成 3年1991年














平成 3年1991年














平成 3年1991年














平成 3年1991年














平成 3年1991年














平成 4年1992年

(H)



平成 5年1993年

(H)



平成 6年1994年

(H⇒S)



平成 7年1995年

(S)










平成 8年1996年

(S)



平成 9年1997年



平成10年1998年

(S⇒SPC-T)

平成11年1999年
(SPC-T)



平成12年2000年
(SPC-T)



1991年
この当時は調布市つつじが丘のアパート単身暮らしで日々充実していたものでした

当時印象に残っている製品に電子部門で担当していましたロケットの電子目が電子
事業部で手がけていました、光学系の目は当時CANON,NICONが主流のようでした。

1991年平成3年島田理化が最大規模の時代を迎えた、以降はバブル崩壊で全てが 下降縮小されて行く 


1992年 

1993年
バブル崩壊後職場を明るくと行って本社営業、業務部有志南房総に旅行したひと時

カメラ目線⇒本社 産業機器事業部、業務、本社営業職場メンバー


  

1994年平成5年6月
社長 天野順介就任される

本社業務部業務課から島田製作所生産管理部 転勤(専務からもう島田に戻る方が良
い、社長からも島田に移動させたらどうかと助言があったとのこと、われわれも、
(専務、事業部長)も来年なれば終わるから、もう君を知る人はいなくなるので島田
に戻る時期だと言い島田転勤決定したとのことでした。、

島田製作所生産管理部の仕事は納期遅れのお詫びの挨拶が仕事かと思えるぐらいあ
ちこちに、所長と出かけたものでした(自分たちが製造現場で物作りをしていた時
もこんなだったかと思うと、先輩たちに申し訳ないような気がしますが、気ずいた
時には先輩はいません。

1995年
 


液晶製造装置が各社しのぎを削り液晶板の大型化に伴い毎日のように装置が大きく
なり、各社激戦となる、まず液晶装置販売メーカーにしがみつかなければ洗浄装置
メーカーも生き残れないため、相当無理をし受注され、その納入から運用まで現地
にアフターケアーの出先機関に常時10名ぐらいの作業技術者を当てるようになる、
でもこの激戦期が結果として日本メーカーは乗り切れなく、10年後には他国に市場
を譲る結果となっていった。 、

1996年
 

1997年
 

1998年

島田製作所生産管理部から子会社島田理化テクノサービスに出向(資材部担当)今までの
仕事は物作る、売ると言うことが主でありましたが、初めて部材の調達と言う、物を
買う立場で少し戸惑うが買うほうが売るより
はたから見れば楽の用に見えますが
れなりに難しいものがありました、
 

1999年
 

2000年
 

平成 13年2001年
(SPC-T)







平成 14年2002年
(SPC-T)

平成 15年2003年
(SPC-T)






平成 16年2004年


平成 17年2005年

平成 18年2006年

平成 19年2007年

平成20年2008年















平成21年2009年











平成22年2010年



































2001年平成13年
テクノサービス全員(機械組立調整部門、電気試験部門)の新入社員からベテラン
まで、全員これからの作業に支障が起こらないようにとパソコン教育を行い、まし
た、特に電気屋さんはシーケンサーで今までもそれなりに使用されていましたが、
機械屋さんは触ることもせず、敬遠されていましたが、これからの機械装置は全て
パソコン操作のプログラム運転を行うため、習得しておく必要が段々出てくるので
少し早いようですが全員に習得させる事にした、おかげで、機械屋さん電気屋さん
ペアーで出張修理に出かけないで、単独で作業が可能となり、皆様から喜ばれた 。

2002平成14年年9月15日  
定年退職となり⇒引き続き嘱託社員としてお世話になる

2003年  
4月以降島田理化工業鞄田製作所人員整理の話が出てきたので嘱託社員は3月で
2003年平成15年3月31日退職することとなりました。小生のサラーリーマン生活卒業
2003年平成15年4月1日
第一次の人員整理始まる(とりあえず50歳以上59歳まで対象)

2004年平成16年  

2005年平成17年 

2006年平成18年 

2007年平成19年 

2008年平成20年 


2009年 

2009年平成21年11月30日島田製作所閉鎖


創業当時からの大先輩(大上良治様、小長谷久雄様)がまったく時を同じにし逝き
ました事は大変残念なことでした

昭和21年に創業当時にお世話になった、東海事業⇒東海パルプがこれも時を同じに
社名改名され島田から長年親しまれまれた『東海パルプ』の名前の消えた年でした

2009年平成21年12月5日島田製作所

臨時ニュ−ス:2009年平成21年12月21日発表

平成22年3月31日をもって上場廃止、三菱電機完全子会社


2010年平成22年3月31日をもって上場廃止、三菱電機完全子会社


2010年平成22年

島田製作所その後経過(2010-7-19現在)



2010年
 

島田製作所建物解体終了後の 更地風景(2010-11-25撮影)


平成 23年2011年


平成 24年2012年


平成 25年2013年































平成 25年2013年































平成 25年2013年































平成 25年2013年































平成 25年2013年































平成 25年2013年


























平成 25年2013年


























平成 25年2013年


























平成 25年2013年

平成 26年2014年






























2011年

2012年 

2013年  

海軍技術研究所の遺跡がまた一つ島田市牛尾山から消える

このコンクリート基礎遺跡は言い伝えによりますと、マグネトロンによる電磁波発射装置のドーム跡
とのことです、


(完成前工事中 に崩落し未完成で終戦を迎えたとのことです)この場所に足を踏み
入れますとかなりの量のコンクリート残骸がありました


このことを考えますと、電磁波(光線)利用の破壊兵器の成功を待たずに電波発射
装置の準備は平行し行っていたこととなります(まだ数十メートル先に損害を与え
る程度の光線電磁波しか出ていないようでした飛行物体ないしパイロットに損害を
与えるなんて程遠いものだったのではないでしょうか、
戦後はこのマグネトロン電磁波は平和利用に貢献され、電子レンジの発達に貢献し
たようです



2013年平成25年3月末現在(三菱電機グループ)
商号
島田理化工業株式会社
SPC ELECTRONICS CORPORATION
設立年月日1947年(昭和22年)8月5日
創業 1946年12月8日
資本金 6億円
本社所在地 〒182-8602 東京都調布市柴崎2-1-3
従業員数 308名(2013年3月末現在)
代表取締役 取締役社長 齋藤 淳


サービス会社
島田理化テクノサービス(静岡県島田市)

2013年 

Z研究のシンポジウム開催される、島田市内




牛尾山解体現場

撮影目線は遺跡敷地の南東(大井川東)新東名より撮影(2013-11-14)

今月の臨時イベント 島田市内  
平成25年12月12日(伊藤庸司氏の息子様(伊藤良昌氏)と島田宿・金谷宿史跡保存会の方々と懇談
島田市博物館にて⇒牛尾実験所の現地見学と翌日13日一部の方の崎平疎開先トンネル見学)
12日島田博物館会議室に集った方々
伊藤良昌(光電製作所会長)、根本悦朗(光電製作所)、餘家 清(電子会世話人)
大塚(島田宿・金谷宿史跡保存会会長)、鈴木利明(島田宿・金谷宿史跡保存会)、
辰巳均(潟tジ)、濱田彩華(静新 SBSグループ)、島田市博物館館長
新間(島田宿・金谷宿史跡保存会)、臼井(金谷史跡保存会会長)
牧田(古典ラヂオミニミニ博物館)





疎開先・本川根町崎平の現在の様子周辺風景(2013-12-13撮影)

大井川発電所(崎平)このトンネルに備品・設備材料を疎開させたのではないかと思われます
正確ではありませんが約100mありました(2013-12-13計測餘家清と牧田良秋が歩幅測定で確認

このプレートによりますと大井川発電所昭和11年運転開始のようですね(2013-12-13撮影)



今月の臨時イベント 島田市内  
平成25年12月27日理学博士小沼道二教授と河村豊教授・小長谷大介龍谷大学准教授・島田宿・金谷宿史跡保存会の方々と現地見学と懇談
牛尾実験所の現地見学と一部の方によるお帰り前の懇談
27日牛尾実験場跡史跡現場に集った方々
小沼道二教授(神奈川在住)・河村 豊教授(東京在住)・小長谷大介准教授(京都在住)
大塚(島田宿・金谷宿史跡保存会会長)、地元八木進一郎(竹下茶農業共同組合役員)、
島田市文化財保護職員
新間(島田宿・金谷宿史跡保存会)、臼井(金谷史跡保存会会長)
牧田(古典ラヂオミニミニ博物館)



牛尾実験場・現在の様子周辺風景(2013-12-27撮影)



平成26年2月16日見学しました、現状綺麗に発掘され全容がはっきりしていました







海軍技術研究所技術の平和利用⇒島田理化工業の製品推移

昭和15年〜~38年までの資料は小長谷久雄手記及び島田理化会社案内等抜粋元島田理化従業員牧田良秋の記載
昭和38年以降資料調査は島田理化従業員だった山口光明氏による





1940 昭和15年

1941 昭和16年

1942 昭和17年


1943 昭和18年

1944 昭和19年

1945 昭和20年








1946 昭和21年






1947 昭和22年






1948 昭和23年






1949 昭和24年


1950 昭和25年
1951 昭和26年
1952 昭和27年
1953 昭和28年
1954 昭和29年
1955 昭和30年
1956 昭和31年
1957 昭和32年
1958 昭和33年
1959 昭和34年
1960 昭和35年
1961 昭和36年
1962 昭和37年
1963 昭和38年


1964 昭和39年
1965 昭和40年
1966 昭和41年
1967 昭和42年
1968 昭和43年
1969 昭和44年
1970 昭和45年
1972 昭和47年
1973 昭和48年
1974 昭和49年
1975 昭和50年
1976 昭和51年
1977 昭和52年
1978 昭和53年
1979 昭和54年
1980 昭和55年
1981 昭和56年
1981 昭和56年 
1981 昭和56年 
1981 昭和56年 
1982 昭和57年
1983 昭和58年
1984 昭和59年
1985 昭和60年 
1985 昭和60年 
1985 昭和60年  
1985 昭和60年 
1985 昭和60年 
1986 昭和61年 
1987 昭和62年
1988 昭和63年
1989 昭和64年
1989 平成元年
1990 平成2年
1991 平成3年
1992 平成4年
1993 平成5年
1994 平成6年
1995 平成7年
1996 平成8年
1997 平成9年
1998 平成10年
1999 平成11年
2000 平成12年
2001 平成13年
2002 平成14年
2003 平成15年
2004 平成16年
2005 平成17年
2006 平成18年
2007 平成19年
2008 平成20年
2009 平成21年
2010 平成22年
2011 平成23年
2012 平成24年
2013 平成25年
2014 平成26年












1940昭和15年

1941昭和16年

1942昭和17年
東海紙料(18年3月まで)⇒東海事業
1943昭和18年 海軍技術研究所電波研究部島田分室設立 昭和18年5月

1944 昭和19年

1945 昭和20年
水間正一郎は元、海軍技術廠島田実験所島田分室長で
昭和20年2月組織改革された第二海軍技術廠技術者たちにより創業された

小長谷久雄
海軍航空技術廠養成所昭和18年⇒
⇒三菱航空機製作⇒本廠の飛行機部配属⇒
⇒本廠の飛行機部配属⇒
⇒20年3月1日付け第二海軍技術廠実験員の辞令は出ていたが赴任前に終戦迎える
東海パルプ
1946 昭和21年
東海パルプ梶@6月小長谷久雄入社
この当時7名
東海パルプ荒井社長から10円の退職金もらう、そのまま島田理化工業所従業員
島田理化工業所創業 島田市海軍技術廠 島田実験所跡地利用

1947 昭和22年
島田理化工業株式会社 設立 販売された製品
マグネトロン

社長山本知太郎ー専務水間正一郎、大上良治、小長谷久雄、桜井実、他 帯のこぎり加工しての電熱パン焼器
1948 昭和23年 本社東京中野区 電子レンジ試作製造実験
M312A、 整流管HV972A

社長 水間正一郎 出力300W 出力300W食べ物の無い時代使い道をさがすに苦労した
1949 昭和24年 高周波ミシン(SRA-50A) 誘電出力500W
大型マグネットコイル【磁力1万ガウス) 大阪大学納入渡せ譲る博士グループ
1950 昭和25年
1951 昭和26年 (通信関係)極超短波マイクロ波機器販売開始
1952 昭和27年
1953 昭和28年 (通信関係)NTT用マイクロ波分波器
1954 昭和29年
1955 昭和30年 社長 実 武夫
1956 昭和31年
1957 昭和32年
1958 昭和33年
1959 昭和34年
1960 昭和35年
1961 昭和36年
1962 昭和37年
1963 昭和38年
平成26年2月17日修正記載(以降の資料調査は島田理化従業員だった山口光明氏による)
1964 昭和39年
1965 昭和40年 業務用5KW電子レンジ 2M60×1本 出力5KW
1966 昭和41年
1967 昭和42年
1968 昭和43年
1969 昭和44年
1970 昭和45年 冷凍すり身用高周波解凍装置 誘電加熱 真空管
1971 昭和46年
1972 昭和47年
1972 昭和47年
1973 昭和48年 NT社  カップメン内卵乾燥  マグネトロン=2M60使用
1974 昭和49年 マイクロ波加熱装置(工業用電子レンジ) マグネトロン=2M60×10本 出力50KW
1975 昭和50年 マイクロ波加熱装置(即席食品大量乾燥)  マグネトロン=2M60×10本 出力50KW
1976 昭和51年 高周波解凍装置 誘電加熱 真空管
1977 昭和52年
1978 昭和53年
1979 昭和54年
1980 昭和55年
1981 昭和56年 TK社 豚骨スープの素乾燥  マグネトロン=2M60使用 
1981 昭和56年 TS社 脂上げの乾燥  マグネトロン=2M68使用
1981 昭和56年 NG社 セラミック乾燥  マグネトロン=H3881使用
1981 昭和56年 NT社 砥石の乾燥  マグネトロン=2M60使用
1982 昭和57年
1983 昭和58年
1984 昭和59年
1985 昭和60年 NS社  ラーメンの発砲 マグネトロン=2M68使用
1985 昭和60年 TG社  ゴムの顆粒(カリュウ)サイドバイザー  マグネトロン=2M13
1985 昭和60年 SP社 小豆餡(アン)の加熱 マグネトロン=2M68使用 
1985 昭和60年 AS社 繊維の加熱  マグネトロン=?  使用
1985 昭和60年 マグロ専用高周波解凍装置  誘電加熱 真空管  出力10KW
1986 昭和61年 MM社  カツオ節だしこの減菌乾燥 マグネトロン=2M13D
1987 昭和62年
1988 昭和63年
1989 昭和64年
1989 平成元年
1990 平成2年
1991 平成3年
1992 平成4年
1993 平成5年
1994 平成6年
1995 平成7年
1996 平成8年
1997 平成9年
1998 平成10年
1999 平成11年
2000 平成12年
2001 平成13年
2002 平成14年
2003 平成15年
2004 平成16年
2005 平成17年
2006 平成18年
2007 平成19年
2008 平成20年
2009 平成21年 島田理化工業島田製作所撤去(島田市から姿が消える)
2010 平成22年
2011 平成23年
2012 平成24年
2013 平成25年 牛尾山史跡削られています
2014 平成26年 牛尾山史跡島田市による発掘調査は終了2月16日一般公開されました

マグネトロンの規格
2M60(東芝)2450MHz 5KW/1台
2M68(東芝)2450MHz 5KW/1台
2M13(日本無線)2450MHz 5KW/1台
2M130(日立)2450MHz 1.5KWー1.7KW/1台
不明(日本無線)915MHz 25KW/1台
H3881(日立)2450MHz 5KW/1台

小長谷久雄追憶雑記掲載


平成25年2013年故小長谷久雄様の奥様に11月15日まで完成した合作の資料をお見せし、1冊仏前に上げホームページでの公開の許可を頂く。

小長谷久雄追憶雑記表紙-まえがき-写真


[左側上]元海軍技術廠の跡地 にて、[左側下]、海軍技術研究所島田分室(後
の第二海軍技術廠島田実験所の工作室)を島田理化工業所が使用


[右上の左側]技研時代の軍用技術が〜民生機器への最初、マイクロ波製品の完成を記念し中央に製品を置き、皆での記念写真(昭和23年)
[右上の右側] 高松宮殿下、島田理化にご来社時の記念写真(昭和22年12月7日)左から4 人目宮殿下、右へ水間(後の島田理化の社長)
荒井(元東海事業(東海パルプ)社長


[右上の右側]顧問の方々がご来社時の記念写真、島田理化にご来社時の記念写真 (昭和23年8月)2列目より岡村総梧博士、渡瀬譲博士、朝永信一郎博士(昭和39 年
ノーベル物理学賞受賞渡辺 寧博士、(元、海軍中将待遇、島田実験所長)小谷正雄博士、伊藤康二博士(元海軍技術大差)、水間正一郎(後の社長)、高尾
磐夫博士(常務取締役)

[左下、渡辺 寧先生(元、海軍中将待遇、島田実験所長)ご来社時の記念写真(昭和24年3月)

[左上、技研時代の軍用技術が〜民生機器への最初、マイクロ波製品の完成を記念し中央に製品がある映像の回路図(昭和23年)

実験場遺跡と島田理化島田製作所解体詳細

島田理化追憶と雑記詳細



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