海軍技術研究所島田分室 〜島田理化工業の推移
《Z研究》
ここに記載いたしました資料は島田理化工業渇社案内等の抜粋・創業当時から活躍された
従業員だった小長谷久雄【黒字で記載】(昭和55年退社)手記(追憶雑記)の転記及び
島田理化工業鰹]業員だった牧田良秋【青字で記載】(平成16年退社)手記でまとめた
尚日本無線(JRC)の推移が重要ですので昭和20年以前の資料掲載しました
追憶及び雑記による技研〜島田理化
昭和15年から平成時代の現代までのあゆみ
昭和18年1943年
昭和19年1944年
昭和20年1945年
昭和21年1946年 昭和21年1946年 昭和22年1947年 昭和22年1947年 昭和23年1948年
昭和23年1948年
昭和23年1948年
昭和24年1949年
昭和25年1950年
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1943年昭和18年5月
建設中の島田実験場・下記映像2枚は森薫樹氏の雑誌記事からの資料(雑誌名及投稿日時等不明)です
1943年昭和18年5月
1944年
1945年
本格的に設備の移転を開始しようとしたの時点はわかりませんが、大上中尉が指示され赴任され
1945年昭和20年8月15日終戦後
右上の島田第一中学校(現在は学校ありません)校庭にピンク色のところが第一研のコンクリート跡が校庭の地面つらのあるところで、青いところは水間正一郎 氏のスケッチによる飛行機の位置ですのでスケッチをおもちのは方は照合してみてください、跡地の利用がわかります、薄い黄色が島田理化工業所発足当時、おそらく技研の建物1棟と思います(この確認は当時この学校の生徒で、1研校舎と呼ばれて授業を受けていた、方(吉原三郎氏島田理化社員昭和24年入社)り聞きました.尚この頃はまだ学校が図面のように全部できていたわけではなく無く、周辺に裁判所があったようでした【プール】付近テニスコート、バレーコート付近はさつま芋を作っていたとのことです
上は航空映像(昭和20年頃)と水間氏スケッチと昭和36〜38年ごろの地図と比較して見た
この航空映像は比較の為少し借りています、(昭和20年の何時の日か不明)
東海事業の木工部(電気部)海軍技術研究所残留者(表現が適切ではないかもしれません)
(昭和38年当時ねこプレスの設置場所板金工場の近くで仕事をされていました杉山静夫のスケッチです)
B自動ネジきりマシーン(ドイツ製)昭和21年から現役使用し年昭和40年阿知ケ谷移転後その 後数年使用した(空胴波長計の平歯車を休み無く製作しつずけたマシーンです)
D旋盤、フライス盤、ボール盤など工作室の設備はそのまま利用(昭和21年から昭和40年頃まで) 昭和36年にとなりに自前の建屋を建設された時も、これらの機械類は現役使用された、 昭和41年阿知ケ谷移転時にはすでに最新の物に入れ替わっていました、
島田市海軍技術廠島田実験所跡地及び工作室等工場として利用
1946年昭和21年12月8日
右上写真↑昭和22年1947年島田理化工業株式会社が設立され看板が掲示された頃【合わせて大阪市立大学理学部分室、賠償指定機器所在工場と書かれている)
中央に完成させたマグネトロン装置とその手前部品を中央に記念写真(このときの図面は写真集の中に配線図があります) 昭和23年(1948年)島田理化工業所に日本の物理学者など顧問の訪問、こんな時代もあった
昭和25年6月社長水間正一郎
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昭和26年1951年
昭和27年1952年
昭和28年1953年
昭和29年1954年
昭和32年1957年
昭和33年1958年
(S)
昭和34年1959年
(S)
昭和35年1960年
(S) |
1951年昭和26年
設計・実験室・計測・MC仕上(カメラ目線⇒南南東から北北西方向)//事務棟(カメラ目線⇒北東から南西方向)
1953年(通信関係)NTT用マイクロ波分波器本格的製造納入【東京調布本社ショールームに郡分波器の1号機が展示されています】
1954年
昭和35年1960年、
工場長もオートバイ(HONDAベンリー125cc)の時代自動車の所有者松野課長は
昭和36年おのぼりさん鈍行でイザ東京へ【電気機関車の引率で真っ黒な客車10両】 |
昭和36年1961年 (S) 昭和37年1962年 (T) 昭和38年1963年 (T) 昭和39年1964年 (T) 昭和40年1965年 (T) 昭和41年1966年 (S) 昭和42年1967年 (S) 昭和43年1968年 (S) 昭和44年1969年 (S) 昭和45年1970年 (S) |
1965年昭和40年
昭和40年1月新工場落成式
1968年昭和43年
1969年昭和44年
1970年 冷凍すり身用高周波解凍装置 誘電加熱 真空管
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昭和46年1971年 (S) 昭和47年1972年 (S) 昭和48年1973年 (S) 昭和49年1974年 (S) 昭和49年1974年
昭和50年1975年 (S) 昭和51年1976年 (S) 昭和52年1977年 (T) 昭和53年1978年 (T) 昭和54年1979年 (S)
昭和55年1980年
(S) |
1971年昭和46年
1974年昭和49年
1977年昭和52年
昭和53-7-11〜昭和53-7-25(台湾出張)
1979年昭和54年
昭和54-1-21〜昭和54-1-31(台湾・シンガポールマレーシア・他海外出張)
1980年昭和55年7月
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昭和56年1981年 (S) 昭和57年1982年 (S) 昭和58年1983年 (H-東北) 昭和59年1984年 (東北) 昭和60年1985年 (東北) 昭和61年1986年 (東北) 昭和62年1987年 (東北) 昭和63年1988年 (H) 昭和64年1989年 平成元年1989年 (H) 平成2年1990年 (H) |
1980年昭和55年10月
1981年昭和56年
1982年昭和57年
1983年昭和58年
1984年昭和59年エス・ピー・シーユニオン叶ン立⇒滑阜島田理化
1985年昭和60年
1985年 昭和60年
1986年
1987年昭和62年6月
社長 潮 拓郎就任される
1988年昭和63年
1989年平成元年
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平成 3年1991年 (H)
平成 4年1992年
(H) 平成 5年1993年
(H) 平成 6年1994年
(H⇒S) 平成 7年1995年 (S) 平成 8年1996年 (S) 平成 9年1997年 平成10年1998年 (S⇒SPC-T) 平成11年1999年 平成12年2000年 |
1991年
1991年平成3年島田理化が最大規模の時代を迎えた、以降はバブル崩壊で全てが
下降縮小されて行く
1992年
1993年
カメラ目線⇒本社 産業機器事業部、業務、本社営業職場メンバー
1994年平成5年6月
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年 |
平成 13年2001年 平成 14年2002年 平成 15年2003年 平成 16年2004年 平成 17年2005年 平成 18年2006年 平成 19年2007年 平成20年2008年 平成21年2009年 平成22年2010年 |
2001年平成13年
2002平成14年年9月15日
2003年
2004年平成16年
2005年平成17年
2006年平成18年
2007年平成19年
2008年平成20年
2009年
2009年平成21年11月30日島田製作所閉鎖
2009年平成21年12月5日島田製作所
臨時ニュ−ス:2009年平成21年12月21日発表 平成22年3月31日をもって上場廃止、三菱電機完全子会社
2010年平成22年3月31日をもって上場廃止、三菱電機完全子会社
2010年平成22年 島田製作所その後経過(2010-7-19現在)
2010年 島田製作所建物解体終了後の 更地風景(2010-11-25撮影) |
平成 23年2011年 平成 24年2012年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 25年2013年 平成 26年2014年 |
2011年
2012年
2013年
海軍技術研究所の遺跡がまた一つ島田市牛尾山から消える
このコンクリート基礎遺跡は言い伝えによりますと、マグネトロンによる電磁波発射装置のドーム跡
2013年平成25年3月末現在(三菱電機グループ)
2013年
Z研究のシンポジウム開催される、島田市内
牛尾山解体現場
撮影目線は遺跡敷地の南東(大井川東)新東名より撮影(2013-11-14)
疎開先・本川根町崎平の現在の様子周辺風景(2013-12-13撮影) 大井川発電所(崎平)このトンネルに備品・設備材料を疎開させたのではないかと思われます このプレートによりますと大井川発電所昭和11年運転開始のようですね(2013-12-13撮影) 牛尾実験場・現在の様子周辺風景(2013-12-27撮影) |
海軍技術研究所技術の平和利用⇒島田理化工業の製品推移
昭和15年〜~38年までの資料は小長谷久雄手記及び島田理化会社案内等抜粋元島田理化従業員牧田良秋の記載
昭和38年以降資料調査は島田理化従業員だった山口光明氏による
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1940昭和15年 1941昭和16年 1942昭和17年 東海紙料(18年3月まで)⇒東海事業 1943昭和18年 海軍技術研究所電波研究部島田分室設立 昭和18年5月 1944 昭和19年 1945 昭和20年 水間正一郎は元、海軍技術廠島田実験所島田分室長で 昭和20年2月組織改革された第二海軍技術廠技術者たちにより創業された 小長谷久雄 海軍航空技術廠養成所昭和18年⇒ ⇒三菱航空機製作⇒本廠の飛行機部配属⇒ ⇒本廠の飛行機部配属⇒ ⇒20年3月1日付け第二海軍技術廠実験員の辞令は出ていたが赴任前に終戦迎える 東海パルプ 1946 昭和21年 東海パルプ梶@6月小長谷久雄入社 この当時7名 東海パルプ荒井社長から10円の退職金もらう、そのまま島田理化工業所従業員 島田理化工業所創業 島田市海軍技術廠 島田実験所跡地利用 1947 昭和22年 島田理化工業株式会社 設立 販売された製品 マグネトロン 社長山本知太郎ー専務水間正一郎、大上良治、小長谷久雄、桜井実、他 帯のこぎり加工しての電熱パン焼器 1948 昭和23年 本社東京中野区 電子レンジ試作製造実験 M312A、 整流管HV972A 社長 水間正一郎 出力300W 出力300W食べ物の無い時代使い道をさがすに苦労した 1949 昭和24年 高周波ミシン(SRA-50A) 誘電出力500W 大型マグネットコイル【磁力1万ガウス) 大阪大学納入渡せ譲る博士グループ 1950 昭和25年 1951 昭和26年 (通信関係)極超短波マイクロ波機器販売開始 1952 昭和27年 1953 昭和28年 (通信関係)NTT用マイクロ波分波器 1954 昭和29年 1955 昭和30年 社長 実 武夫 1956 昭和31年 1957 昭和32年 1958 昭和33年 1959 昭和34年 1960 昭和35年 1961 昭和36年 1962 昭和37年 1963 昭和38年 平成26年2月17日修正記載(以降の資料調査は島田理化従業員だった山口光明氏による) 1964 昭和39年 1965 昭和40年 業務用5KW電子レンジ 2M60×1本 出力5KW 1966 昭和41年 1967 昭和42年 1968 昭和43年 1969 昭和44年 1970 昭和45年 冷凍すり身用高周波解凍装置 誘電加熱 真空管 1971 昭和46年 1972 昭和47年 1972 昭和47年 1973 昭和48年 NT社 カップメン内卵乾燥 マグネトロン=2M60使用 1974 昭和49年 マイクロ波加熱装置(工業用電子レンジ) マグネトロン=2M60×10本 出力50KW 1975 昭和50年 マイクロ波加熱装置(即席食品大量乾燥) マグネトロン=2M60×10本 出力50KW 1976 昭和51年 高周波解凍装置 誘電加熱 真空管 1977 昭和52年 1978 昭和53年 1979 昭和54年 1980 昭和55年 1981 昭和56年 TK社 豚骨スープの素乾燥 マグネトロン=2M60使用 1981 昭和56年 TS社 脂上げの乾燥 マグネトロン=2M68使用 1981 昭和56年 NG社 セラミック乾燥 マグネトロン=H3881使用 1981 昭和56年 NT社 砥石の乾燥 マグネトロン=2M60使用 1982 昭和57年 1983 昭和58年 1984 昭和59年 1985 昭和60年 NS社 ラーメンの発砲 マグネトロン=2M68使用 1985 昭和60年 TG社 ゴムの顆粒(カリュウ)サイドバイザー マグネトロン=2M13 1985 昭和60年 SP社 小豆餡(アン)の加熱 マグネトロン=2M68使用 1985 昭和60年 AS社 繊維の加熱 マグネトロン=? 使用 1985 昭和60年 マグロ専用高周波解凍装置 誘電加熱 真空管 出力10KW 1986 昭和61年 MM社 カツオ節だしこの減菌乾燥 マグネトロン=2M13D 1987 昭和62年 1988 昭和63年 1989 昭和64年 1989 平成元年 1990 平成2年 1991 平成3年 1992 平成4年 1993 平成5年 1994 平成6年 1995 平成7年 1996 平成8年 1997 平成9年 1998 平成10年 1999 平成11年 2000 平成12年 2001 平成13年 2002 平成14年 2003 平成15年 2004 平成16年 2005 平成17年 2006 平成18年 2007 平成19年 2008 平成20年 2009 平成21年 島田理化工業島田製作所撤去(島田市から姿が消える) 2010 平成22年 2011 平成23年 2012 平成24年 2013 平成25年 牛尾山史跡削られています 2014 平成26年 牛尾山史跡島田市による発掘調査は終了2月16日一般公開されました マグネトロンの規格 2M60(東芝)2450MHz 5KW/1台 2M68(東芝)2450MHz 5KW/1台 2M13(日本無線)2450MHz 5KW/1台 2M130(日立)2450MHz 1.5KWー1.7KW/1台 不明(日本無線)915MHz 25KW/1台 H3881(日立)2450MHz 5KW/1台 |
小長谷久雄追憶雑記掲載
平成25年2013年故小長谷久雄様の奥様に11月15日まで完成した合作の資料をお見せし、1冊仏前に上げホームページでの公開の許可を頂く。
小長谷久雄追憶雑記表紙-まえがき-写真
[左側上]元海軍技術廠の跡地 にて、[左側下]、海軍技術研究所島田分室(後
の第二海軍技術廠島田実験所の工作室)を島田理化工業所が使用
[右上の左側]技研時代の軍用技術が〜民生機器への最初、マイクロ波製品の完成を記念し中央に製品を置き、皆での記念写真(昭和23年)
[右上の右側] 高松宮殿下、島田理化にご来社時の記念写真(昭和22年12月7日)左から4 人目宮殿下、右へ水間(後の島田理化の社長)
荒井(元東海事業(東海パルプ)社長
[右上の右側]顧問の方々がご来社時の記念写真、島田理化にご来社時の記念写真
(昭和23年8月)2列目より岡村総梧博士、渡瀬譲博士、朝永信一郎博士(昭和39 年
ノーベル物理学賞受賞渡辺 寧博士、(元、海軍中将待遇、島田実験所長)小谷正雄博士、伊藤康二博士(元海軍技術大差)、水間正一郎(後の社長)、高尾
磐夫博士(常務取締役)
[左下、渡辺 寧先生(元、海軍中将待遇、島田実験所長)ご来社時の記念写真(昭和24年3月)
[左上、技研時代の軍用技術が〜民生機器への最初、マイクロ波製品の完成を記念し中央に製品がある映像の回路図(昭和23年)
実験場遺跡と島田理化島田製作所解体詳細
【 古典ラヂオミニミニ博物館 】下記お立ち寄りください
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SPCの面影展示に関する、御意見、御要望がございましたらお知らせください(工事中の為現在メール停止中)
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