本人たちのお話で判明したこと書き留めておきます(平成26年3月から4月牧田良秋が聞き取り)
昭和22年3月から4月入社の川崎富雄、白井喜一郎さんは明治時代から使われた尋常高等小学校の記載
教科書を使用して勉学に励んだ最後の卒業生でありました。
新制度6−3−3制の義務教育制度の発足に伴い中学3年制に相当する1年はこの年は選択できかなり
の方たちは卒業した

昭和23年3月卒業で入社された、松田兼夫、広住實、酒井司夫、少し遅れて入社の稲上民子さんたち
は新制制度下の一期生の卒業生です

@この方々川崎富雄、白井喜一郎、松田兼夫、広住實、酒井司夫は技研実験場の入り口付近の裁判所
建物の半分ぐらいが中学の校舎〔教室)として使用されていたのでそこで勉強され、
技研の一研建屋を『一研校舎』と呼ばれ授業を受けたそうです。(一研建屋は記憶では2年間位使用?)

Aこの年代の人たちが尋常高等小学校と書かれていた教科書が使用され、昭和20年8月15日終戦以後
その年の後半ぐらいから教科書墨塗りし授業を受けた世代です

B中学生の頃より技研の建物付近を見ていて、その後その建物に入社した人たちでこの混乱時期を
よく知る人たちで島田理化立ち上げ当時の従業員でもあります。

入社時の仕事、
@この付近にアース[接地]用の銅板が埋められているので、スコップで掘り出しておきなさい等
言われあちこち穴掘りした

A装置の解体をよくやったような気がする、
稲上民子さんは電々公社就職内定していたが、不景気のため採用中止となり急きょ先生が自転車に私を乗せ、
島田理化に切り替え会社まで行き話を付けてくださった、、
就職した静岡大学付属中学の戦後の卒業1期生

高松の宮殿下が訪問された時のお茶菓子150円もって清水屋にお菓子を買いに行ってきたが3つ、しか
買うことができなかったのでその和菓子を何個かに切ってお皿に盛りお茶出しをしたことがいまだ印象
に残っているとのこと、
当時はお菓子も高かったし、会社もお金はないしこんな時代でしたとのことでした、自分の給料1500円
位と記憶でした、

この方々は島田市内在住で元気な人たちです(川崎富雄、白井喜一郎様は確認とれませんでした)

松田兼夫が小学6年か中学1年頃(昭和20年)のお話、大井川堤防現在の博物館付近と鉄橋との間あたりで
風船を上げてハザシテいたのを見たとのことでした(住まいが稲荷町で堤防付近は遊び歩いたところ
だそうです)。何でハザシテていたのかわわからないとのことです。(平成26年9月9日話されました)
小学6年(昭和19年4月〜昭和20年3月)
中学1年(昭和20年4月〜昭和21年3月)
中学2年(昭和21年4月〜昭和22年3月)
中学3年(昭和22年4月〜昭和23年3月)島田理化入社

平成26年9月酒井司夫氏亡くなわれました(平成26年9月10日記載)

平成26年9月18日(平成26年9月81日記載)現在島田市稲荷町在住伊藤信夫様よりお話聞く
昭和18年から終戦8月30日解散島田分室に勤務(軍人)していた。
自分の任務は当初は総務関係で実験現場にはいってはいなかったので何をされていたのか、さっぱり
わからなかったが19年頃から人で不足ということで、南研(大学側のグループの現場に出向いて、
何かわからなかったが、メーターの指示値を見て記録するとか、マグネトロンの真空抜きとかの仕事をしました、
その後20年になり大上さんが来られ大上中尉の部下として崎平に出向いた、仕事は、島田実験場から移ってくる
技術者とか学生の宿泊先の確保にあたった、
終戦後も8月29日まで崎平に出勤勤務し30日に島田実験場に戻り解散した、自分は解散式に臨んだのかどうかは記憶にはない、

平成26年9月18日(平成26年9月81日記載)現在島田市東町在住稲浦昇様よりお話聞く
自分の記憶は島田理化工業の、機械の写真をおやじが取りに行くとき、幕を持ったりの手元作業を手伝った記憶がある
父が終戦前に実験場に出入りしていたのかわからない、古い写真がまだあるから、そこを調べれば何か手がかりあるかもしれない、
後日調べてみましょう、ということで本日引き揚げました(9月18日)


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【海軍技術研究所島田分室〜追憶雑記】>

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【海軍技術研究所から島田理化工業の平和利用】
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