海軍技術研究所〜島田理化工業の推移


Z研究関連 (島田実験所 ・牛尾実験所・崎平疎開先)




ようこそ島田市へ。

平成20年(2008年)5月金谷町は島田市と合併し榛原郡金谷町はなくなり島田市となりました
その後平成20年(2008年)?月榛原郡川根町家山(抜里)付近まで島田市となりました


「越すに越されぬ」と詠われた大井川に架かる世界一長い木造歩道橋が切手になりました

平成21年(2009年)6月4日富士山静岡空港が(切手になりました)開港致しました

周辺道路の整備を牧之原台地を中心に急ピッチで整備しました


島田市は、静岡県のほぼ中央に位置し、北には南アルプスへ続く山々が連なり南には
緑豊かな牧之原大茶園が広がります。市内にはかつて「越すに越されぬ」と詠われた
大井川をはじめとする大小幾つもの川が流れる「水と緑の美しい落ち着いた」まちです
平成21年(2009-12-4)古典ラヂオミニミニ博物館から見た島田理化(SPC)背景が栃山です

昭和と平成の21年の因縁
2009年平成21年富士山静岡空港が開港し、また大きく変化するであろう生活習慣など、
関東と関西を飛び越えて、外国との交流が開花し発展しようとした年に、残念なこと
がこの島田市内に起こりました

1946年昭和21年旧海軍航空隊、パイロット養成所として同じ牧の原台地の西隣尾根の空港
が閉港し解体された(大井海軍航空隊・牧の原台地)年でもありました(組織解体そのもの
は終戦8月15日以降いつの日か閉鎖されたか?と思われれますが不明)


昭和21年からのあゆみ

島田理化追憶と雑記詳細

↓ の手の出る映像(SPC 社章)クリック
創業当時から活躍された故小長谷久雄氏の手記追憶と雑記より引用

昭和21年当時の河原町工場

昭和21年前後の記憶(小長谷久雄氏の手記追憶)



昭和23年(1948年)島田理化工業所に日本の物理学者など顧問の訪問、こんな時代もあった


発足当時の配員詳細
↓  の手の出る映像クリック(映像は昭和26年1月1日賀詞交換会)


昭和27年(1952年)当時と平成21年(2009年)の蓬莱橋です、こんな時代の間島田理化は島田市に存在していました

1952年当時の蓬莱橋は左側の先生と高さを比較してみてください、当時の蓬莱橋は柱も丸太(木材)で水面から2m程度しかありませんでした、(現在はコンクリート柱で6mぐらいあります)

1952年(昭和27年)小学校の遠足の途中での記念撮影(前列右から三人目が筆者)



昭和35年1960年、島田工場の当時3棟ありそのうちの北側に位置する事務所、設計、計測部門の工場空き地、昼休みのひと時

工場長もまだベンリー125cc、の時代(自動車の持ち主は運転免許無く同僚(ハッピーセブンの持ち主)が運転してドライブしたものでした

昭和35年1960年正月(河原町-事務棟南東より)

昭和40年1965年正月(阿知ケ谷-事務棟南西より)

実験場遺跡と島田理化島田製作所解体詳細
↓下の手の出る映像クリック



島田製作所建物解体前(2009-12-5撮影)

昭和21年創業から東海パルプとともに歩んだ

島田理化工業の看板がこの島田市から消えた



平成21年11月30日を持って、高周波応用機器部門中心に本社工場・東京に移管

平成21年11月30日島田製作所閉鎖

平成21年12月5日島田製作所

平成21年12月7日機材搬出完了

昭和21年12月8日が創立日ですのでちょうど昭和の年号分で島田市から消えることになりました。

臨時ニュ−ス:平成21年12月21日発表

平成22年3月31日をもって上場廃止、三菱電機完全子会社

できます

島田理化工業島田工場(島田製作所)は
昭和21年に創業(平成21年に解体開始)
昭和22年に設立(平成22年に解体完了)
海軍技術研究所島田分室関係者、創業当時からの先輩(大上良治様、小長谷久雄様)
がまったく時を同じにし逝きました事は大変残念なことでした

昭和21年に創業当時にお世話になった、東海事業⇒東海パルプがこれも時を同じに

社名改名され島田から長年親しまれまれた『東海パルプ』の名前の消えた年でした

海軍技術研究所の民間移行後の企業、そしてまた一つそして島田市牛尾山から消える牛尾実験所



海軍技術研究所から島田理化工業の推移平成25年8月15日修正掲示しなおしました

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