資料提供通信員 古典ラジオミニミニ博物館 牧田です
現在は古典ラジオミニミニ博物館から仮に上げてあります、ここでは分室の発足はさらっと概要を
海軍技術研究所島田分室〜始まりはここから
海軍技術研究所島田分室長水間正一郎氏の分室のスケッチ(右側が北 )
上は航空映像(昭和20年頃)と水間氏スケッチと昭和36〜38年ごろの地図と比較して見た
この航空映像は比較の為少し借りています、(昭和20年の何時の日か不明)
昭和20年8月15日終戦後いつの日か東海事業の木工部(電気部)終戦後水間氏はGHQに呼ばれ数か月
『海軍技術研究所 島田分室 案内』
資料
述べているものです、終戦後の民間会社の技術の平和利用を追憶雑記を元に掲載しています
この部分の赤字記載は元日本無線専務取締役・工学博士 中島 茂様の
『私の体験した未踏む技術との戦い』より抜粋させていただいています
1932年昭和7年〜昭和12年頃まで
日本無線内で、工学博士 中島茂氏は極超短波すなわちマイクロ波真空管(バルクハウボン。クルツ振
動管とマグネトロンの研究に着手、やがてこの研究に海軍技術研究所が目をつけ共同研究を日本無線
に申し込んできて、契約成立後は研究費は贅沢になり、1937年昭和12年頃にはマイクロ真空管
の研究室だけで300名を越す陣容となった)
1939年昭和14年春
この研究室では大出力のキャビティ。マグネトロンの発明に成功された。⇒軍艦搭載用レーダーに使用された
当時の海軍はどのような経緯で電波兵器の開発にすすんだのか?
『山本五十六』の一言
昭和17年6月
ミッドウエー開戦直後電深搭載採否を決定しようと言うことで日向艦上にて
出席者
△艦政本部〜第三部長 名和技術少将、主任官 橋本中佐
△艦隊側から第二艦隊通信参謀 桜中佐、日向艦長 松田大佐。同航海長
△海軍技術研究所から工学博士 伊藤庸二造兵中佐、矢浪技術大尉、
海軍技師水間正一郎などの出席で、日向艦上会議がおこなわれた(途中省略)
長時間の論議はあったが結論は電深搭載の採用決定・その後会食となり、
大和から連合艦隊司令長官山本五十六大将や軍指令参謀たちが日向にやってきた
このとき山本五十六大将は伊藤、矢浪、水間など技術の所員に対していった
『よくやってくれた、私は、日頃、この戦さを遂行するには、通常兵器では1年
もたないと主張してきたが、君たちのような若い技術者が何とかして画期的な兵器
を開発してくれ。・・・・・
上記の記事は新名丈夫氏(元毎日新聞記者・海軍担当)の資料より引用しました
ここが【Z研究】の発端と思われる
下記映像[潜水艦用電探(1号機)]は森薫樹氏の雑誌記事からの資料(雑誌名及投稿日時等不明)です
1942年昭和17年6月
伊藤庸二造兵中佐は秘密訓令を受けて、東京ミタカの日本無線特殊研究所で、電波探深機と併行して電波兵器の準備を進めた
1942年昭和17年10月
海軍技術研究所では画期的な新兵器として超大出力のマイクロはの利用を考えていましたその
使用目的として、もっとも真剣に考えたのは敵機を強力マイクロ波電力で撃墜することでした
三鷹の日本無線の隣接地に研究所を設けて着手した。
1943年昭和18年1月
画期的な兵器 の出現を切望した海軍軍司令部は、この超大出力マグネトロンの研究室の大拡張
を、海軍技術研究所へ指令してきました。
この話を聞いた私(工学博士 中島 茂)は早速大倉喜七郎男爵を訪問して相談しましたとこ
ろ、ご自身(大倉喜七郎男爵)静岡県島田町の東海事業(東海紙料)株式会社に案内して下さ
れたのでした、海軍技術研究所はここに約く2万坪の 土地を確保して、大研究所を急遽建設す
ることになりました
その後伊藤庸二造兵中佐はかねてから押し進めいた、電波兵器の本格的開発を進めるため、
東京三鷹の日本無線内に機密で設置してありました、海軍技術研究所が手狭なため、水間に対
し何処か実験場に適する場所を探すよう指示されたとの事、そしてその場所が決定したのが
静岡県島田町の東海紙料に隣接する広大な敷地(大倉財閥のマグネシュウム製造工場予定地)
(2万坪)に決定され、(条件:東京より日帰り範囲、電力が豊富、物静かな田舎)
技研建屋の建設
昭和18年から突貫工事で建屋の建設がおこなわれた。
1943年昭和18年5月
海軍技術研究所電波研究部島田分室設立
(製紙会社の 東海紙料(18年3月まで)⇒東海事業 )の隣接地(大倉喜七郎男爵所有地マグネシュウム製造予定地)2万坪に設置
建設中の島田実験所・下記映像2枚は森薫樹氏の雑誌記事からの資料(雑誌名及投稿日時等不明)です
他の施設はほとんどが大倉財閥のマグネシュウム製造工場予定地でしたので建物
はすでに有りそれらをそのまま使用されたようです
理由@:昭和30年頃第一中学の校庭から見て島田理化が使用された建屋が10年程度しか
経過された建物のようには見えなかった
理由A:昭和23年入社された広住さんにお聞きしましたら入社時ボロボロの建屋でし
たとのこと)24年の記念写真見てもある程度判断付くでしょうと言っていました
尚、大倉財閥のマグネシュウム製造工場は立地条件が悪いという理由で秋田県に工場移された
大倉財閥にとってはまたとないチャンスで即軍に提供されたようです、
戦後の敷地の動きはまだよくわかっていません(建物の変遷ははっきりしています)
簡易裁判所、技研使用した用地⇒北側:島田第一中学校用地。中間:島田理化工業。南側:東海パルプ
その後すべて東海パルプが所有されたようです(現在に至る)
1943年昭和18年5月
海軍技術研究所電波研究部島田分室設立 [(製紙会社(東海紙料)の隣接地に設置]
⇒ 東海紙料(18年3月まで)⇒東海事業 (21年3月まで)
⇒東海パルプ(平成21年まで)⇒東海特殊製紙
1944年
戦況が思わしくないと見た上層部は、実験所の分散を図り、海軍島田実験所と同じ実験など
できる様、設備と研究者の疎開先の検討に入る(正確にいつの時点か誰の指示かは不明です
疎開先【牛尾実験所の設置】島田分室より2Km程の上流付近
牛尾山鼻先地域の山の中とその周辺、住宅借上げ(強制立退き)などして牛尾実験所として
建屋の建設、住宅の改修、備品の整備等開始。(正確にいつの時点か誰の指示かは不明です
1945年
疎開先【崎平実験所の設置】島田分室より50Km程の上流付近
榛原郡本川根村、崎平地区の中部電力大井川発電所内及びその周辺(発電所に通ずるトンネル)
実験所備品の搬入、そして一説には発電所の建屋その物を、実験室と考え、使用した様ですが
1945年6月
大上良冶中尉は島田実験所を案内され(半日ぐらい見学)疎開先の崎平に研究者の宿泊先確保
のため民家の借り上げ、下宿先などを調達する責任者として即着任された
本格的に設備の移転を開始しようとしたの時点はわかりませんが、大上中尉が指示され赴任され
たのが6月ですので、終戦まで40日〜50日程度の期間ですのでわずかな備品しか移設されなかった模様
北研での研究は進んで、波長20cmで出力100KWのマグネトロンの開発実験を終え、さらに
500KWの研究えと進みつつあり、直径20mのパラボラアンテナも完成しましたが、これらを組
み合わせて実験する前に終戦を迎えた。
この波長20cmで出力100KWのマグネトロンの試作に成功されたのは第一研究所へ日本無線
から出向されていた北研責任者山崎荘三郎氏の研究グループでした。
静岡県志太郡島田町に設置された・・・・
牛尾実験所設置・・・・・・・
さらに山奥に疎開か静岡県志太郡川根町(大井川発電所校内)物資搬入中に終戦
当時の大井川電力事情は数値(設備などの物資)として把握は出来ていませんが、
このつり橋は昭和20年当時の大井川発電所に通じる通路であります(平成25年現在は通行止め、現物はある)
下流に現在使用されているつり橋があります
これ以降は海軍技術研究所解体後の様子(島田理化発足当時の様子)
その後島田理化工業発足時の関係者のみ記載(詳しくは別途解説)
水間正一郎氏は元、海軍技術廠島田実験所島田分室長で
昭和20年2月組織改革された第二海軍技術廠技術者たちにより翌21年に
東海事業鞄熾泊g織の電気部で創業された
大上良冶氏は島田理化工業所立ち上げ時水間正一郎氏と共に働く、その後工場長として就任した
小長谷久雄氏は(海軍航空技術廠養成所昭和18年⇒三菱航空機製作⇒本廠の飛行機部
配属⇒本廠の飛行機部配属⇒20年3月1日付け第二海軍技術廠実験員 の辞令は受けていたが終戦当時8月15日には着任していなかった
1945年昭和20年8月15日終戦後
昭和20年海軍技術研究所島田実験所の建物配置図[左側の配置図作成](右側は河村豊教授の論文に掲載
されています資料です、これを引用させていただき、できるだけ忠実に作図して配置図を作成しました
つらのあるところで、青いところは水間正一郎 氏のスケッチによる飛行機の位置ですのでスケッチをおもちのは方は
照合してみてください、跡地の利用がわかります、薄い黄色が島田理化工業所発足当時、おそらく技研の建物
1棟と思います(この確認は当時この学校の生徒で、1研校舎と呼ばれて授業を受けていた、方
(吉原氏島田理化社員昭和24年入社)り聞きました.尚この頃はまだ学校が図面のように全部できていた
わけではなく無く、周辺に裁判所があったようでした【プール】付近テニスコート、バレーコート付近はさつま
芋を作っていたとのことです
島田を離れていた期間当時のパルプの荒井社長の善意でかくまったともいわれています)
海軍技術研究所残留者(表現が適切ではないかもしれません)5名を含め
水間正一郎、他5名で民間会社の発足となる
追憶雑記全文 小長谷(発足当時)から(昭和55年)ー牧田(昭和55年以降解体迄)
【 技研関係施設と、民間会社解体 】
海軍技術研究所分室ののち島田理化工業の発足から平和利用について(未公開未発表資料精査中)
PDF資料の表示方法の試験中
“” 日本海軍島田技研A417頁“”
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