『崎平実験所案内』



 『崎平実験所』編 資料

川根本町記念事業での、竹野さんと原田さんによる講演会です。

川根本町記念事業、
川根本町 町政合併20周年記念講座

2025年10月11日開催されました資料の公開
現在は古典ラジオミニミニ博物館より令和7年
島田近代遺産学会のメンバーによる資料として掲載させていただきます
資料を試験的に揚げてあります
島田実験場、牛尾実験場関連資料などから崎平が読み取れる資料として、
わかりやすいかと観て掲載しています

現在資料検閲確認依頼中です不明な点、誤記などが記載されています事ご承知願います



〜ここまで分ったZ研究終焉の地-2〜崎平に設置か、「Z兵器」の幻影

講師:
*電子会世話人 旧海軍技術士官を中心に昭和34年に結成された親睦団体*
*島田近代遺産学会会員*
元・島田技研を語り継ぐ会。島田のZ研究に関連する歴史の「謎」を解く
餘家 清 よけ きよし
メール省略

(写真:大上良治氏)

(写真:蜂谷謙一氏)

(写真:蜂谷謙一氏)

(写真:蜂谷謙一氏)

(写真提供:平田屋様)


海軍島田技術研究所(静岡県志太郡島田町)

(絵:水間正一郎氏)

島田での「Z研究」の様子は
???? 「Z研究」は“科学者集団”が行った物理研究である。
???? 水間所長は「動物園方式」と名付けた方式をあみだし、軍隊的管理をなるべく避け、快適な宿泊施設、食事を準備、さらに軍が希望している研究課題を、風呂に一緒に入り、背中を流しながら説明するなど工夫した。その一方で、殺人光線計画など、軍側の機密情報はほとんど知らせず、研究者間の情報交換も制限して「部分研究」のみを担当させた。
(河村豊「戦時下日本で、科学者はどのように軍事研究にかかわったか」)

?大井川(※島田)の実験場では研究員60名、部外協力者25名、助手320名、警備その他で計1457名…。
(伊藤庸二『殺人光線』)
第一研究場(一研:昭和19年11月現在)スケッチに描かれた設備



マグネトロン(磁電管)とは? マグネトロンM312

マグネトロンM312
電波発振用真空管の一種で、強力なマイクロ波(波長 30p〜0.3o)を発生する。磁電管とも呼ばれる。日本無線鰍フ中島茂氏、山崎荘三郎氏らが開発。
右の写真は山崎荘三郎氏。
マグネトロン
手前の装置がマグネトロン
(中央)で、その両脇を挟む形で円形の電磁石が設置され電力で作動させる。
(写真は、レーダー送信用
水冷マグネトロンM-312) (写真提供:山崎 眞氏)

(写真:大上良治氏)
注 緑字の3名(湯川秀樹教授、伏見康治教授、永宮建夫氏)は、Z研究に直接は参加していない
牛尾の架台とアンテナ
2か所のコンクリ台座とパラボラアンテナ島田の架台とアンテナ

(写真提供:大上良治氏)

(写真『中日トピック』より)

(撮影:餘家清)
「A装置」開発と牛尾実験所のジオラマ






(撮影:餘家清)
A装置:牛尾での「電波誘導起爆信管」開発

高度10,000m以上の上空を飛ぶB-29を撃墜したい。

日本の飛行機ではそこまで上がるのに1時間かかる。
高射砲は届かない。さあ、どういう方法があるのか。
A装置:牛尾での「電波誘導起爆信管」開発
高度10,000m以上の上空を飛ぶB-29を撃墜したい。
日本の飛行機ではそこまで上がるのに1時間かかる。
高射砲は届かない。さあ、どういう方法があるのか。
@強力電波(Z)
エンジンを不調に
A電波起爆信管(A)弾体の誘導起爆
・ロケット誘導弾奮竜(龍)
Bレーダー追撃態勢
B-29の進路標定

・秋水、橘花の迎撃
科学者たちは「必死」ではなく
「必中」をめざした

私が取材させていただいた「レジェンド」たち





進駐軍への「引渡目録」でも隠された 崎平
降伏時に進駐軍に提出されたZ研究の『引渡目録』。
「島田実験所」「牛尾実験所」は引渡物件が記されているが、「崎平」は記されていない(隠されている)。
それは、島田・牛尾で開発していたのは「A装置(電波信管)とし、連合軍が追究する「殺人光線(Death Rey)」の開発は隠し通す…という方針から、当初そのような軍の隠蔽工作が行なわれた。
降伏時には「箝口令」もあっただろう「崎平でのZ兵器開発」の痕跡を、知り得た資料で述べてみたい。
闇に消された幻の“崎平○○”
「C地区」と呼ばれた“崎平”だが、正式名称は不明




発電所トンネル内に残るのはZ遺構か?



「Z研究の進捗」を視察した深田正雄少佐

海軍艦政本部の故深田少佐(後中佐、享年105歳)は部長の指示で、昭和20年7月
24日熱海の海軍病院に出向き、島田の研究者を呼び寄せ、上層部にZ研究について説明するパネル数枚を25日までに作った。その後の行動は次の通り。
・8月3日、島田に向かう
・8月4日、実験所、パラボラなど調査、5日帰京
・8月10日、島田に向かい11日会議の後、午後帰京
(深田正雄『回顧 海軍十年』2010年12月刊)
・大井川上流の盆地の周辺の高地に柱を建てて中央部に直径15mもあろうという大きな金網の凹面鏡(パラボラアンテナ) を吊り下げてあった。 まだ電波は出ていないし、ビームの向きが変えられるかどうかも不明だった。

Z研究の「兵器化イメージ」とは
島田実験所、および兵器化設計の拠点である熱海の「新兵器研究所(元海軍病院)」では、基礎実験の不足はあるが、海軍上層部の強い要請で、無理矢理兵器化が進められた。
マグネトロン出力合成担当の小田稔院生(戦後、理化学研究所理事長)は、「とにかく適当に作ってしまうことに決った。それで島田の重要な科学者と技研の目黒の本部にいてZ装置に関係ある物は熱海に合宿してデザインをする。確か小田さんはデザインをしておいて夜逃げすると言っていた。(森永晴彦「島田技研の思い出とその後」 )では、それがどういう物だったのだろうか?

昭和20 年7月に参画した、山崎文男の場合
理化学研究所の山崎文男は、 仁科芳雄博士の研究室で「ニ号研究(原子爆弾)」のウラン濃縮を行っていたが、空襲で研究が困難になり、昭和20年4月13日に空襲で
「分離筒」共々研究室が焼失、研究が継続出来なくなり、仁科博士は「島田に行って手伝え」と命じ、磁電管(マグネトロン)真空システムの仕事を行った。
(玉木英彦、仁科洋『仁科芳雄 日本の原子科学の曙』)
・2月12日、島田の仕事を誰が担当するかの話あり。
・3月29日、仁科他一行、島田に行き報告会を受講。
・4月12-13日、理研49号館が空襲により焼失。
・7月3日、東京を発ち島田へ。SW12かSW13を担当。
・7月24日、C地区(崎平)に行く。12設置場所を相談。
・8月6日、新金谷→千頭。青部から発電所に行く。

・8月12日、原爆解明のため「仁科研に即帰れ」の電報。
(中根良平ほか『仁科芳雄往復書簡集 現代物理学の開拓 V』)

資料、転載禁止に願います。餘家清」
「山崎荘三郎氏遺愛の写真、提供:山崎眞氏(ご子息、元海上自衛隊自衛隊司令官・海将)、未公開
各種資料に「強力マグネトロン形状」の記述がある

新発見の図と“ひまわり”型との関係か?
この空洞共振器に多数の陽極をつけ、振動を同期させることで入出力を大きくする、ということである。こうして、私達が“ひまわり”型と呼んだものが考案された。(略)
多数の陽極を一つの空洞共振器にとりつけて同期励振させるという、もっと理論的、“知的”な研究の方は矢浪技術大尉の主宰する研究室にいた森永晴彦さん達の仕事になっていた。最終的にはこのマグネトロンはプロトタイプで発振がおきることを確認しただけで終戦になった。 (小田稔「マイクロ波の朝永理論」)

小田稔ほか、マグネトロン開発の面々



日本物理學會誌第3巻第1〜2號)
最末期に試作された出力合成装置とは
(装置の兵器に向けて)


戦後『科学』誌に掲載された論文に掲載された、マグネトロン4個を出力合成するための装置。
(図版提供:鈴木綾子氏)



未発見の『島田技報』を探してください!
???? 崎平で実験予定だった東芝製のSW-12(これは山崎文男氏が崎平で8月に作業)
  SW-13(これが兵器化試作されたマグネトロンか)ですが、その開発には渡瀬博士、
  小田稔院生ほかが関与していた。「ひまわり型」マグネトロンに関する資料は未発見資料
 『島田技報』の次号が見つかれば解決されるはずなのですが…。
???? 第10号著者不明 秘「空洞共振器ノ特性ニ就テ」       (昭和19年 8月15日)
???? 11号・著者不明「SW2(ほうづき型)磁電管について」  (昭和19年11月20日)
???? 12号・永宮健夫「秘:日まはり型磁電管について(第1報) 」(昭和19年11月23日)
???? 13号・永宮健夫「秘:日まはり型空洞ノ固有振動について」 (昭和19年11月23日)

「Z兵器」について、捜せば少し資料は見つかる要求は波長10p程度入力連続500kW、出力最大
250kW期待のマグネトロンを作ることである。
(小田稔『回想のアルバム』)
6個
大井川上流発電所のあたりに、直径23米の大反射鏡を据えつけ、実物を作って実験即実戦をやる計画が樹てられた。設計の要旨は、8吋砲塔の旋回盤の上に大反射鏡を装備し、その裏面に1000kWのマグネトロンを取りつけ、発生した電力波は合成された上、
金メッキした導波管を通って、焦点へ出て、空間を掃こう…。 (浅野卯一郎「殺人光線の研究」)反射鏡には艦政本部第一、第三、第四、第五の各部と二技廠から合計10名あまり泊り込みできて、作業をはじめた。 (浅野卯一郎「勢号研究の思い出」)

巨大なパラボラアンテナの設計
径23m直径はある資料によると菊池正士が23m必要と算出した。まことに巨大な装置である。
渋谷隆太朗(海軍中将。
艦政本部長)は石川島重工業の米内(三郎)氏が、戦争末期に熱海に強制的につれて行かれ、銅板反射板(パラボラ)の急速設計を行った、との米内氏の告白を記している。(渋谷隆太郎「旧海軍技術資料 第1編第4分冊」)

パラボラアンテナのイメージ
(作図:佐野 貢氏)
37
アンテナ旋回は八吋(20p)砲塔

(渋谷隆太郎「旧海軍技術資料 第1編第4分冊」)




強力マグネトロン設計は熱海で、その巨大さは?

今度は大井川発電所のあたりに、直径23米の大反射鏡を据えつけ、実物を作って実験即実戦をやる
計画が樹てられた。(略)それらの一連の設計を、私が主催している熱海新兵器研究所でやってくれ
と頼まれた。(略)
マグネトロンには東芝重電機から青木技師ほか2名、反射鏡(注:巨大パラボラ)には艦政本部
一、二、三、四、五の各部から合計10名あまり泊り込みできて、作業をはじめた。
(浅野卯一郎「勢号研究の思い出」)高さ2m、重さ約1トン(浅野卯一郎「勢号研究の思い出」)


「Z兵器」について、捜せば少し資料は見つかる要求は波長10p程度入力連続500kW、出力最大
250kW期待のマグネトロンを作ることである。
(小田稔『回想のアルバム』)
6個
大井川上流発電所のあたりに、直径23米の大反射鏡を据えつけ、実物を作って実験即実戦をやる計画が樹てられた。設計の要旨は、8吋砲塔の旋回盤の上に大反射鏡を装備し、その裏面に1000kWのマグネトロンを取りつけ、発生した電力波は合成された上、


(写真:大上良治氏)



ご清聴有難うございました
調査に当っては、このほかにも多くの方々にお世話になっており、島田で、金谷(牛尾)で、崎平で、長年調査をされている方々にも、深く感謝を申しあげます。
判ったことをお話しし今したが、まだまだ崎平・千頭の地でのZ研究は謎ばかりです。調査が必要です。引続き、
“明日まで続く実体解明”を進めましょう。
軍が“死ぬまで口外するな”と厳命した秘密の開示は、老人の話を、お孫さんたちが聴くことが最も有効な方法であることは、すでに証明されています。値域で失われた「我が町の真実」を取り戻しましょう。
地域の皆様のご支援が、「謎」を解く大きな力になります。

(写真:大上良治氏)


2015年(平成27年)1月15日牛尾実験所遺跡跡地の解体竣工式が行われ解体始まる



牛尾実験所跡遺跡報告(島田市発行資料) 文献こちらからお入りください[クリック】

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